PLASTIC FISH
10.残照、選択の時(3/8)
突然だった。
だが、問いかけには答えるほかない。
「霊感はありませんけれど、まあ、信じないこともないです」
「うん。私もそんな感じかな。……で、その病院にはね、当時妙な噂が飛び交っててね。まあありがちな、幽霊が出るってやつさ」
「病院なら、出てもおかしくないですね。勝手なイメージですが」
「自殺する人も多かったからね。でも、そういうのとは違うんだ。全身真っ黒の、きれいな女の人が出るって――」
「え……」
京の記憶が、歯車が、きしんだ。
自分はその噂を知っている。まさか、遠く離れているであろう病院にまったく同じ噂が感染することもあるまい。いや、可能性としては否定できないが、
京が黙り込んでいる間にも続くその説明が、生々しくも鮮明すぎる。あまりにも重なりすぎている。
「その幽霊が歩くと、鈴が鳴る。その音に誘われて、女の姿を見た人間はあの世に連れて行かれるって皆噂してた。探してる自殺志願者もいたな」
「……です」
「うん?」
「その通りです。女を見たら、女の声を聞いたら、もう戻れない。人間の世界には……戻れない」
ぽつりぽつりと、呟く。
「みやちゃん」
その様子の異常さに気付いたのか、樹が凛とした声で名を呼んだ。現実に京を引き戻すために。最後の綱を離させないように。
「噂なんかじゃないわ。私、あの時見たもの。世界が隔離されたみたいに静かな中で、あの人と出会ったもの」
「みやちゃん!」
「触らないでッ!!」
これはいけない、と京の体に触れようとしたその手が、容赦なく振り払われる。静かにベンチから立ち上がる京の目は、深く鈍い赤に満ちていた。
――違う。こんなみやちゃん、みやちゃんじゃない。
樹はそう思い、ただならぬ状況に息を飲んだ。気のせいか、周辺の空気が、気配が異常に濃い。今にもむせてしまいそうだ。
京のはるか後方、届くはずもない空に月が浮かぶ。
「みやちゃん……京」
「もうやめて」
悪い予感はあたり、突然態度が豹変する。冷たく投げかけられた声は、夜の空気を背負い大きなプレッシャーとして樹を責める。
ここで見失ってはいけない。
京がここを立ち去ったら、もう会えない。もうその手に届かない。危うさに、疲れてもいないのに体がきしむ。息が、苦しい。
「もう、もうやめて! 私の心をかき乱さないでッ!!」
声の限りに叫ぶ。悲鳴にも近いそれは、完全な拒絶の意だった。両手で頭を抱えたかと思うと、次の瞬間には京は公園から逃げたいとばかりに走り出した。
「……みや、ちゃん……なんだよ、これ……」
手を伸ばし、無駄だとわかるなり追いかけようと出した足が――いや、足が前に出ない。一歩も動かせないとばかりに、地に縫われたように動かない。
すとん、と膝がまがり地に伏せる。甘い気持ちでいたその時には、意識さえ簡単に手放してしまいそうな圧力。
「……馬鹿な人間」
しゃん、と鈴の音が鳴った。音の方向を見上げ――樹は、信じられないとばかりに固まった。
闇に溶ける人影は、目の前に倒れている人間が感じているプレッシャーが通じないとばかりに軽く足どりを進め、すぐに背を向けた。
本当の夜が、はじまろうとしている。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴