PLASTIC FISH
09.星空は見えず(13/15)
「(……水城)」
「お、おい。なんだよ水城、なんで泣くんだよ。ほら、富岡さんが困ってるじゃないか。こっちへ――」
再び手を伸ばす。
「いやっ!」
樹が実際そばにいたことで、水城は我慢の限界が壊れてしまったのだろう。悲鳴を上げ、身を守るようにちぢこまった。
男が「クソ、」と舌打ちして立ち上がる。
――こんな汚い男に、水城は毎日苦しめられていたのか。
樹の中で、糸がぷつりと切れた。
男の手が水城に届くより速く、鞄より包丁を取り出す。本当はもっと殺傷に向いた武器がよかったのだが、持ち歩ける程度ではこれが一番いいと判断して持ってきたのだ。
銃は入手に手間取る上、消音を施したとしても響きすぎ、あとの処分にも困る。それに、至近距離に入れることはすでに計算済みだった。
『え……!?』
涙に頬を濡らす水城と、苛立ちを隠せなくなった男との両方が、その場に似合わぬ鈍い輝きに声を漏らした。
「――死ねッ!」
受け身を取る時間もない。勢いよく包丁は男の胴へと刃を入れ込み、ほどほどの深さで止まった。
服が血に塗れ、どんどん赤い液体は広がっていく。ぽたり、と畳に落ちた。それは一つのしみにとどまらず、雨が降るように一部の領域を次々に濡らした。
「駄目、樹ッ!!」
――水城、もう苦しい思いはさせない。もういいんだ、罪なんて自分が全て被ればいい。
「死ね、死ね、死ねッ!! お前が水城を狂わせた! お前が水城を壊した! お前が水城を汚したんだ、お前みたいな汚い生きる価値もないようなクズが私の愛した水城を奪った、だから死ね!! 死んで私に詫びろ、水城に詫びろ、これでもかと苦しんで死ねッ!!」
樹本人ですら、何を言っているのかわからなかった。狂ったのは言葉だけではなく、行動も同じ。
めった刺しとは、まさに今の状態を指すのだろう。知っている限りの急所を外し、深く傷つけることもなく、何度も、切れ味をなくした包丁を振り下ろし続ける。
男が苦しんでいる。
男の返り血に自分が染まっていく。
樹は、喜んだ。そうだ、この顔が見たかったのだ。
ここで死ね、お前は死んでもいい人間だ。そして二度と私達の前に現れるな。
そして水城、はやくふるさとに帰ろう。君の傷は一生かけても私が癒す、君が一人じゃないと気付くまで私がそばにいる。
だから――
「やめてっ!!」
「!?」
先ほどまでとは違う感触が、樹の手に伝わってきた。
眼前には、刃の届かぬ位置で泣いていた水城の姿。その細い体を傷つけているのは、樹の持つ凶器。
「……え……」
止まった。
傷つき意識もうつろにうめく男を、水城がかばっている。涙は勢いを増し、人形のように美しい彼女の顔をぐちゃぐちゃに汚していた。
血塗れの包丁が、手から離れ畳へと落ちる。
「や、めて……樹ちゃん、もう、いいの……いいから……」
「何で止めるんだよ、水城。何でそんなクズをかばうんだよ、水城っ!! 駄目なんだ、そいつは生きてちゃ駄目なんだよ!!」
「……いつ、きちゃん」
水城の顔が、苦しげに微笑んだ。
「みずき……」
「どんな人でも、樹ちゃんがいたから頑張れた。生きてこれた。それに、この人はどんなにひどい人でも……私の愛した人なの、私は、この人が好きなの……ごめんね、ごめん、ごめんね……」
――語る樹の涙は、いつのまにかぴたりと止まっていた。
「その時、電話がかかってきたんだよ。例の会社からね。そこで、私は言ったよ。人を殺しました、って」
「……」
「そうしたら、電話の相手が代わった。何人殺した、性別は、状態は、っていうから正直に言った。二人で、男は重傷、女は……なんていったかな。処置すればそう深くない傷だ、って言った。素人が見たらそんなものだよ」
まばたきをし、窓を見やる樹。カーテンが風に揺れ、さしこんでくる光は昼間のそれに変わっていた。
「そこから、私の夢のような現実がはじまった」
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴