PLASTIC FISH
09.星空は見えず(6/15)
暗い海に、人の形をした魚が溺れている。
冷え切った身体。願っても天から降りぬ蜘蛛の糸。伸ばした手が、不快に絡む波を分断し崩してゆく。
蒼白になった頬に、何かが降った。世界の終わりを彷彿とさせるどんよりとした雲の群れから、それはちらついている。
汚れを知らない雪だった。
「……ああ」
そうだった、と魚は頷き、両のまぶたを閉じた。
全てが暗闇に閉ざされる。
この雪のように、何も知らない――半年前の自分のままでいられたなら、こうはならなかったのに。
自分は手をとってしまった。差し伸べられた手、悠久を生きて悲しみに満ちた瞳、それらを見て、ああ、やっと巡りあえたと思った。
輪廻に逆らい希望が開ける、そんな気がしたのに。
何も残らなかった。
「……」
見慣れない景色がそこにあった。
よくあるマンションの一室だが、空き部屋かといわんばかりに生活感がない。壁際に積んである大きな複数のダンボールと、自分が布団に寝かされていることがなければ空き部屋と判断してもなんら不思議はなかっただろう。だが、ここにはわずかな気配が残留している。
「(……何が、あったんだっけ……)」
胸が痛いわけでもないのに、呼吸が苦しい。夢から覚めきらない頭が、世界が終わる瞬間を流し続けている。
何度かまばたきを繰り返し、気だるげに上半身を起こしてみても、状態は一向に良くならなかった。
改めて、辺りを見渡してみる。
気持ちだけ開かれたカーテンからは、弱くも明るさは十分な光が漏れている。朝、なのだろうか。夜明けはとうに過ぎているように思える。
「……」
立ち上がるも、体が痛みを訴える様子はない。前夜、リミッターを外すほどの無茶をしたわけではないようだ。
だが、だというのならこの一つしかない心にのしかかる疲労はなんだというのか。痛む頭を片手でおさえながら、部屋の内部をのろのろと徘徊しはじめる。
はねのけられた布団が、ばさりと音を立てて重力のままに沈んだ。
「ん……」
一番に目についたのは、ダンボールを机にするように、そしてその机の上に飾るように置かれた写真立て。
誰もいないことを確認すると、すっとそれを手に取る。
――京の思考が、治りかけの傷をぐっとえぐられるように痛んだ。はっと目を見開く。
「いつ、き……?」
もう、さんを付けるほどやさしく扱うものでもない。生理的に嫌悪を示すものを見たように青ざめ、京の手が写真立てを離そうと震える。
なんのことはない昼の景色を背景に映っているのは二人。
一人は、樹。
一人は。
「イヴ?」
その顔には覚えがあった。当たり前だ、何度も何度もあの場所で見つづけてきたのだから、眠り姫の姿を。新たな世界のための人柱を。
作り物に対してこの表現は変だが、双子のように似ている。だが、過去にイヴを起動させたという情報は京の頭にない。
ましてやこんなに、人間のようにあどけなさを残して笑うイヴなんて。並んで映る二人は、少し色あせていた。
「あ、」
そこまで考えると、ようやく体が思考に追いつく。手から写真立てが離され、フローリングの床にがちゃんと音を立てて落ちた。
フレームが乱れ、立てるための支えが乱れ、写真が乱れ――写真が乱れ?
違和感を拭えなかった京は、落ちた衝撃によりおさまっていた位置より離れた写真を手にとった。
息が、詰まる。
気のせいかと思い写真の表面をなでて、目をこらした。間違いだと思いたかった。
「これ、違う……。合成してある、本当の写真じゃない……」
意識が戻る前のことは、まだ思い出せない。だが、合成であれど樹が映る写真がある以上ここが樹が関わっている住居だということは明らかだ。
不思議な肌寒さと、嫌な予感を表の光に照らして消してしまいたい。だが、その前にしなければ、確かめなければいけないものがある気がする。
京は写真立てが元々飾られていたダンボールのガムテープを急ぎ作業ではがし、中を確認した。
本かと思えた大量に積まれたそれは、アルバムだった。デジタル化が進む今時では目にしなくなった、なつかしさをも感じるそれを手近なものから取り出す。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴