PLASTIC FISH
07.ルナティックトーチ(3/6)
「大体『ご機嫌いかが?』じゃないわよ、私の体は今異常だらけで説明してもらっても実感とかそういう――」
頭を抱える手を離し、真が立っていた方向へと顔を向けた京は思わず言葉を途切らせ固まった。
「実感? 実感が欲しいの?」
足音も気配もなく、数秒の合間に真は京との距離を大きく詰めていた。言葉通りの眼前に、主人である真はいた。
誰もが美人と答えるような顔ではないが、端正な顔立ちをしている。暗闇でもわかる鈍く赤く火を灯す瞳のなんと美しいことか。
――しだれた植物、そしてそこに咲く花を見て、ある人間は「まるで、美しい女人が目を伏せているようだ」と讃した。
まさに、その実感を京は今ここで感じている。乱れているわけでもなく、自然にしだれつつも表情を覆わぬ黒髪の一本一本が、いとおしい。
息を呑み、あまりの夢見心地に気が触れてしまうのではないかと思い、冷たいシーツを引っ張り後ずさる。
「駄目」
その行動をも見透かして、真は逃げる兎を追うようにしてベッドの上へと身を乗り出した。
それでもなお下がろうとする京の後頭部がこつん、と壁に当たり、逃げられないことを理解する。組み敷かれる状況になった彼女は、少しの怯えを見せた。
「大丈夫。……怖いことなんて、しない」
暗闇の中では黒に近い京のオリーブグレイの髪をなで、優しく梳く。いつもの手袋をしていない真の利き手は、男のものでも女のものでもない不思議な体格の片鱗を見せており、わずかに背徳の匂いを感じさせた。
「ひっ……!」
それでも、恐怖を抱いていることにかわりはない。真の顔が自分の首筋に近づき、うっすらと開いた唇から牙の存在を視認したとき、京は情けない声をあげて震えた。
「嫌なの?」
ゆっくりと、やさしく問う。
飴と鞭のようだ。飴ばかりを舐めさせられていると甘いことも忘れてしまいそうだが、真――京の主人は、そのあたりをよく心得ている。
「い、いや……」
「そう、嫌なの……」
動揺している京にはわからなかったが、それは甘くやさしい声にしかけた蜘蛛の罠だった。捕食されんとする獲物を、恐怖だけで支配することなく上手く押し引きを使い分けている。
「ちっ、ちが」
「うん? わからないわ。はっきり言ってごらんなさいな、あなたにも口があるでしょう? ほら、私に聞こえるように言ってみて」
――好きだと、離れたくないと、はっきり言葉にしてごらん。
真はそこまで言おうか迷ったが、腕の内にあるかわいいしもべは自分が思うよりもずっと怯えている。まだ、時期尚早のようだ。
「嫌じゃ、ない……。嫌なら、あの夜私は貴方を拒んで、死んでいた。それくらいわかるでしょうに」
「知ってて聞いたのよ」
さらり、と返答。
「ああ、もう! ……だけれど、痛いのは嫌」
「だから、痛くしないと言っているでしょう」
「痛いに決まってるでしょう!? え、映画とかであるじゃない。首筋に大きな穴が空いて、つまりそれだけ肌をやぶって、血管から血を勢いよく……」
切れの悪い言葉だった。
これから起こることに、はじめて体験することに、京はスプラッタ的なイメージしかもてないようだ。
「じゃあ、ちょっとかすり傷をつけるだけ。あなたが痛いといったら、そこで終わるから」
「……」
「少しの傷ならすぐに治せるわ。私が信じられない? やろうと思えば主人がしもべの血を吸うなんて簡単なことなのに、それをあえてしない私が嫌い?」
「……あー」
主人のあまりの意地悪さに呆れ歪む表情。覚悟を決めようとしているのがわかるが、真はあえて自分がそれに感づいていることを言わないでおく。
「おいで」
かわりに、たった一言を発して反応を待った。
真は思う。京の不機嫌な顔を見ていると、嫌がる姿を見ていると、なんだかなつかしい気持ちになる。あの頃がもう一度続きを編みはじめたようで、楽しくなる。
ずっと忘れていた感情だ。かつて誰よりも人間らしいと言われた真が、喜怒哀楽を抱いていた真が、永久に封じ込めたいと思った唯一の時だ。
「……まったく」
京は吐き捨てるようにそう言い、髪をかきあげ自分の首元を示した。
「そう、それでいいの。人間は素直で従順がいい。ああ、あなたは人間じゃなかったわね」
ふふ、と微笑む真の表情の裏に――何が隠れていたのか、京はまだ知らない。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴