PLASTIC FISH
01.幻日(2/10)
――しゃん。
「……?」
ふとした音をきっかけに、京の意識は一気に現実へと引き戻された。
――しゃん。
鳥のさえずり、風に揺れる木々のざわめき、はじまる日々の喧騒。そんな中に、非日常へと続く音がまじっている。
落ち着いて、考えをめぐらせてみると答えはあっけなく見つかった。
家を出てすぐの道路は小学校の通学路に指定されており、毎朝多くの子どもがその道を通り登校していく。
その中に、確か女児だっただろうか。ランドセルに鈴のついたキーホルダーをつけている少女がおり、毎日かかさず目の前の通学路を通るのだ。
鈴の音は、規則正しく響きどんどん遠くなっていく。
京の予想は、きっと当たっていたのだろう。儚い響きは夢のように、薄れて完全に消えた。人間の聴覚がとらえる限界範囲を過ぎたのだ。
「まったく、鈴一つでこう……」
蛇口をひねり、冷たい水を顔に浴びる。ばからしい。鈴の音なんて幼稚園の頃から飽きを通り越して何も感じなくなるほど聞かされている。
今更、何を驚くことがあろうか。何を気にすることがあろうか。
事前に手元に置いておいたタオルで顔を拭き、もう一度京は目の前の鏡を見――そして、固まった。
「え……」
なにかが、唇の間から口内に入った。あたたかく、少し塩からい。
手にし、顔から離したままのタオルがそこにあるはずのない水分を吸収してゆく。ぽた、ぽた、すぐに止まるかと思ったそれは、どんどん量と勢いを増していく。
「いや、なにこれ……やめて……なんで……」
――なんで、私は泣いているんだろう。
鏡に映っているのは、表情こそ歪んでいないものの、淡々と両の目から大粒の涙を流し続ける京の姿だった。
何も悲しくなんてない。目にごみが入ったわけでもない。それなのに、だというのに、まるで涙腺が壊れてしまったかのように目から水が溢れ止まらない。
視界が、涙にゆがんであいまいになっていく。シャボン玉の向こうを見るように、鏡に映る自分が視覚で認識できなくなっていく。
「……」
言葉も出ない。動揺する他に、何ができる、何が言えるというのだろう。
鏡に映る自分が、ゆがむ。
ゆがんでいく。
同じ色の髪と顔をした、誰かが泣いている。京本人ではないと言い切れるのは、髪の長さがまったく違うものになっているからだ。
長い――腰ほどはある。生まれてこのかた、京はここまで長く伸ばした覚えがない。今だって、ほら、こんなにも短い。
「……さん」
とどめようと必死に抑えていた涙腺が、完全に決壊した。
――桂ちゃん。
誰。
私を呼ぶのは、誰。人違いだわ、私はそんな名前じゃないもの。
――桂ちゃん、この壁の向こう、外の世界には何があると思う?
さあ。
愛と希望でも、あるんじゃないの。
――そして、平和ってところかな? そうであれば、よかったんだがね。
知っている。
ああ、私はこの会話を知っている。壁の向こうに何が広がっているのか、世界は何に覆われていたのか、知っている。
……さんだって知っているんでしょう?
だって、あなたは……さんだものね。
――桂、せっかくだから見てみるといい。
二度も見ろだなんて、いじわる。
けれど、命より大切な貴方のためなら――そんなひどい事だって私は平気で――
「京ッ!!」
「え……」
鏡の中に、自分がいる。まるで糸の切れたマリオネットのように、自分が落ちて、世界が、上昇して。
力が入らない。意識がいつ途切れてもおかしくない。けれど不思議なもので、玄関から慌てて駆け寄る母と倒れゆく自分と、全てがスローモーションのように感じられて。
世界が、闇に閉ざされた。
その一瞬、いつかの話の続きが、聞こえた気がした。
――この世界を満たしているのは、闇にも似た……絶望だよ、桂。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴