PLASTIC FISH
01.幻日(1/10)
「……」
懐かしい夢を見た、と目覚めて一番に思った。
京(みやこ)が、まだ十代だった頃の記憶だ。懐かしいと言っても、精神の不調で入院していたその時期から数年しか経っていないのだが、京にはあまり当時の記憶がない。
この世の中、『入院中は退屈だ』と不満をもらす人間が何人もいる。狭い病院の中でかわりばえのしない毎日を送って、だからこそ大して記憶に残らなかったのだろう。
思い出せなくとも何も問題ない。
時折思い出したように見る、あの夢をのぞいては。
「母さん、おはよう」
自室を出て、階段をくだりながら京は廊下の壁にかかっている時計を見た。京が生まれた時からすでにそこにあった、なかなかに古いものだ。
時刻は八時前を指している。今日は水曜日。仕事は休みだが――やっておきたいことがある、後で行くとしよう、動きつづける時計の針を見ながら京は思った。
洗濯物の詰まったかごを抱えた母が、そんな娘を見て困ったように笑う。
「遅いわよ、京。あなた、どうせまた夜遅くまで本でも読んでたんでしょ。探究心があるのは結構だけど、ほどほどにしなさいね」
「洗面所あいてる?」
「まだ。……冗談よ、これが最後の洗濯物」
かごを持ちなおし、体勢を安定させた後、母は娘にその『最後の洗濯物』とやらを改めて見せつけた。
一家はそれなりの一軒家に住んではいるが、家族はそう多くない。家のことには口を出さない寡黙な父と、さして特別な特徴のない温和な母。
そして、子は娘の京一人。
三人とあっては、洗濯物もそう多くない。それでも母を想ってか、手伝おうか、と言った京の提案を母はやんわりと断った。
「……」
階段の途中で立ち止まっている娘を背に、母は玄関から庭へと出て行った。一人、京だけが家の中に取り残される。
別段寝起きが悪いタイプではないのだが、なんだか頭がぼんやりする。母の指摘通り、朝方まで読書を続けていたのが原因だろうか。
それとも。
「いいや……顔洗おう」
膨らみゆく思考を追いやり、京は残りの階段を下りた。
曇りなく、大きな鏡に自分の姿が映る。
肩に届かぬ短い髪、色は染めていないはずなのに黒というにはほど遠い。両親は二人とも日本人なのだが、生まれた娘の髪は何故か日本人らしくなかった。
灰がかった栗色、とでもいうべきだろうか。京は昔、ヨーロッパへ旅行へ出かけた時によく似た髪色をした地元の人間を見たことがある。
学生の頃は同級生にはからかわれ、ひどい時には父を本当の親なのか疑われたこともあった。京は正直すぎるふしがあるため、その当時は
言いたい放題だった好かない同級生を、怒りに任せて殴りそれなりの怪我を負わせた。今となってはいい思い出である。教師には染めるなと怒られたが、無視した。
誰がなんと言いどう疑おうと、このオリーブグレイの髪色は両親から生まれ継いだものである。
――無愛想と称されたこの顔つきだけは、言い切れないが。
「……のまま」
考える。
このまま、いつか想い人ができて、子をもうけて、老いて、死にゆくのだろうか。自分は、そう、ここにいる自分は。
いい歳をして、打ち解けている人間など一人もいないというのに。
もし自分が双子に生まれていたなら、同じように孤独を抱く人間がここにもう一人いて、傷をなめあうことも叶ったのだろうか。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴