PLASTIC FISH
06.夜の世界へ(2/4)
直線を描いて追いかけてくる男を避けながら、京は反撃の前に黒いコートを脱ぎ捨て、草むらへと投げた。
何故そんな行動に走ったのかは、本人にもわからない。なんとなく、あのコートだけは傷つけてはいけない気がした。惜しい、と思った。
「おっ、やる気か? なりあがりの半端者が、勝てると思うのかあ?」
「ふん、その発言、いや、そういった体に生まれてきたこと……それを、後悔させてあげるわッ!」
言い終えぬままに行動しはじめた京は、大胆であり無謀だった。男のふところへ何のトリックもなしに自ら飛び込んでいったのだ。
距離を縮めながら思う。
あの刃物が邪魔だ。月の狂気を受けて血を渇望するその刃は、こんな下劣な男にはもったいない。
「死んじまえっ!」
脳まで筋肉、いや、脳の中身をどこかへ置いてきてしまったんじゃないか――姿勢を低く速度を落とさない京が、ふっと笑った。
獲物を前にした肉食獣の笑み。それは、あの夜に見た真の笑顔を模倣したそのものだった。
「口の利き方を考えなさい、この野良犬が!」
男の振るナイフは急所を狙っていない。考えていないか、いたぶることを目的にしているか、京に対して自分の実力を過信しているかのどれかだろう。
楽なものだ。
もう少し複雑な動きをすれば、そのナイフに触れられることなく次の手を打てたものを。
「――っ!?」
振り上げたナイフを下ろす前に、空いたままの男の腕がねじりちぎらんばかりの勢いで掴まれた。
ああ、こいつはなったばかりでも一応は同族だった、と男はない脳で思ったが今更遅い。乾坤一擲のその合図の時点で、男は出遅れていた。
次の思考を許さんとばかりに、もう一方の腕が振り下ろされぬまま止まる。
待ち望んでいた、血の匂いが広がった。
「く……」
京は一段遅れてくる痛みに顔をしかめた。一方の腕は狂いなく止められたが、経験がないのが痛手になった。
ナイフを握っている方の腕は手首を掴み、ひねりを加えて落とさせるつもりだったが――位置の調整に失敗し、ナイフの刃を受け止める形になった。
尋常ではない強い力で振り上げられた、勢いのある刃物を素手で止めたのだ。無傷ではすまない。
手のひらのはじから京自身の血が、溢れ地面へと落ち垂れていった。
「吸血鬼を舐めるなよ……俺だって、体の成長が止まってもう七十年は経ってる! 這いつくばって生活する日々は、もう終わりだっ!」
――両手はふさがっている。
顔はこちらに届かない。と、なれば次は足か。果たして、右と左、どちらが先に出るのだろう。
「(まあ、どちらでもいいか)」
京はこの時、異常な自信に満たされていた。負ける気がしない。ナイフの刃と、銀の指輪がこすれ冷たく音を奏でる。
男は予想通り、両手の自由をふさがれたことを知ってか蹴りを繰り出してきた。
だが、どうにもこの男、反応が一歩遅いふしがある。
頭を使いなさい、頭を。そう京が思ったところで、気付く。この男に脳なんて大それたものは、ないんだった。
ふっと気持ち程度に一歩下がったかと思うと、男が蹴りのアクションを見せたその一瞬を突いて、京は手首を掴んでいた方の手を離した。
そのまま心持左へ距離を詰め、相手の蹴りがあたらんかとする刹那を狙いカウンターを起こす。
刃を受け止め血まみれになった手で相手の襟元を掴み上げ、いや、これはもう締め上げていたに近いのかもしれない。
浮き上がった男の顔面へ思い切り殴りの一撃を入れ、蹴るべく動かした足が届く前に男の体は公園のすみまで吹き飛ばされた。
「……」
無言で、男が手放し地に落ちたナイフを拾い上げる京。握ると、どこかなつかしさを覚える。
「(刃物なんて、包丁以外に触れたことないのだけれど……)」
そう思いながら、ナイフにべったりと付着し垂れてゆく自身の血液を舐めた。
鉄の味特有の気持ち悪さはなく、甘かった。そして、熱かった。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴