PLASTIC FISH
05.嵐の予感(4/4)
「蛍原さん、お先失礼します」
「おー、みやちゃん。お疲れさん、気をつけて帰るんだよ」
自動扉を抜けて外に出ると、排気に汚れてはいるが秋や冬特有の冷たく肌に気持ちいい風が吹き抜ける。
この風一つで、世界の裏側では嵐にあったり人ではないものが生まれたりとそういったおかしな事が起こっているのだろうか。
白衣の上に、結局誰のものとわからなかった黒いコートをはおり、京は夜の中へと歩き出した。
強い風が吹くたびにコートとセットになったケープが飛ばされそうになって、少し不便だな、などと思いながら。
「風が強いなぁ……みやちゃん、風邪ひかないといいけど」
外の街路樹が激しく風にあおられ乱れるのを見やりながら、ペンを片手に蛍原誠はぽつりと独り言を漏らした。
中枢を除き、この階に日付が変わってもなお残っている人間は少ない。労働時間の基準などとは、ほど遠い場所にここはある。
視線を、窓の外から室内に戻す蛍原。一番近いデスクの上には、飾り気のない白いびんせんが広げられていた。
書きかけの手紙。
これを書き終えて、投函してしまっていいものか、蛍原はここ数日ずっと迷っている。
何を隠そう、恋人などといった色気のある相手ではない。今となってはたった一人の家族、弟の英人に宛ててのものだ。
ここよりもっと都会へ出て、一人暮らしをしている弟。とっくに成人しているが、どこか頼りないその雰囲気は、やけに周りを過保護に変えてしまう。
兄である誠もまた、その雰囲気にのまれていた。
「(女に振られでもしたら、自殺でもしかねんからなあ……やっぱり俺がそばについてるべきだったか)」
無意識にペンを回しながら、心の内に思う。実際、言ったのだ。ついていこうか、都会に行くなら頼りになる兄ちゃんが一緒にいってやろうか、と。
だが、荷物をまとめる手を休めぬまま弟は困ったように笑うばかり。
「兄さんはここでやることがあるでしょ、僕ももういい歳なんだから一人でできるよ。向こうに友達もいるし、兄さんが寂しいって言うんならたまに手紙出すよ」
歳相応でない小柄さと幼い声。泣き虫で、いじめられっ子で、いつも兄の背中に隠れていた頃となんら変わらない。
だからこそ、変わらない外見と反して中身は日々成長していったという――その現実が、いまいち影の薄いものになっているのかもしれない。
「きれいな嫁さんと赤ん坊連れて、こっちに帰ってきたらどうしようかなあ。俺、兄としての居場所なくなっちゃうな」
そんなことを考えていると、自然と笑みが漏れる。
今のような気分なら、手紙も自然なままで書けるかもしれない。
誠はまた、手紙に向かいペンを動かしはじめた。京が無事に帰れるように、との祈りを心の奥底に忘れたまま。
――今夜もまた、会えない。
京は、すぐに家に帰ろうとはしなかった。電車を降りて、人気のない深夜の公園にふらりと足を向ける。
特にその場所を選んだ理由はない。あの人――真のために、夜を一人待てる場所があるのなら、どこでもよかった。
きっと、人間が多い場所は好まないだろう。
きっと、とどまるならこういった寂しげな公園などを選ぶだろう。
「なによ、」
キイキイと鳴るブランコに腰かけたまま、京は一人恨めしげにつぶやいた。うつむいているため、月の光をもってしても表情はうかがえない。
「私、首輪だけ付けられてほったらかしにされてる犬みたいじゃないの……あんな偉そうなこと言って、私に二度目の人生を与えてくれたのだから、だから」
言葉が弱弱しく、詰まっていく。
ブランコの鎖を握る手の、強さが増した。ぎりぎりと爪を立て、同様にもどかしさをかみ締めているのか、嗚咽が漏れる。
「だから……ちゃんと主人らしくしてなさいよ……そばにいてよ……」
――いつか、私に同じ事を言ったじゃない。要求したじゃない。なのに自分の時だけは無視なの? 嘘つき、嘘つき、嘘つき。
「……」
何度目かも知れない、風が吹く。
ざわざわと木々が葉を揺らせ、重く厚い雲に覆われていた月が姿を現す。
まだ満ちていない。まだ、時は来ていない。だが、夜の闇は人あらざるものを呼び寄せる。鮮やかな月は狂気を産み、世に放つ。
悔しさに閉じていたまぶたを開けた時、
「……え」
高階京の、もう一つの歯車が音を慣らし動き出した。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴