PLASTIC FISH
05.嵐の予感(2/4)
「おやすみなさいな、高階京」
たった、たった数週間前の夜のことだ。非日常に触れたその末に、やさしくこうささやかれ、自分の意識がそっと眠りの扉を叩くのを感じた。
自分ではない、生まれたばかりのもう一人の自分が、扉をノックし続けている。
「待って……まだ、聞きたいことが……」
たくさんあった。
もちろん、その場で真実を全て知ろうという気はない。自分はそこまで賢く、強く、馬鹿ではないからだ。
「なぁに?」
それでも、相手は問いを待ってくれた。全てを見透かしたような瞳をこちらへ向けて、微笑んでいる。
崩れ落ちて四肢すらも手放してしまいそうな壊れ物に等しい京を抱きとめたまま、いつかのままでそこに存在している。
次の段階まで、少々時間を要した。
生気を取り戻した京の口が、そっと開く。
「貴方の、名前を」
「……誰の、名前ですって?」
時間がないというに、目の前のヒトガタは鈴飾りをもてあそびながら事を焦らしている。
愉しんでいるように見えた。
待ち望み、やっと訪れた時を惜しんでいるようにも見えた。
「主人……である、貴方の名前を、聞きたい」
「さあ。あるじ様、とでも自由にお呼びなさいな」
命を助けてもらった上でなんだが、京は正直このやりとりに少々の苛立ちを覚えていた。
一歩譲ったというのに、口が減らない。できることなら、明日の太陽の下に晒してやろうか、とも思う。
ついでにこの建物で行われていることを、白日の下にしてやろうか。腹が立ってしかたがない。
「違う」
「うん?」
「貴方には、縛られる所以となった名前がある。この世に生きているのは、その名前を持つゆえにでしょう」
「あらあら。ぺらぺらと、難しい言葉がよくもそう出てくるものね。私の真名(まな)が知りたいの? 桂」
「今、桂と言ったわね。それよ。それに対する名前を貴方は持っているはず」
「何故わかるの?」
「……貴方の血を受けて、わかった。記憶の断片が、いくつにも重なってそこにあったから」
「ふむ」
困ったわね、とヒトガタは笑う。今更何をしらばっくれているのか、京の苛立ちは過激さを増す一方。
正直なところ、名前の目処はついていた。ちらちらともったいぶっていながらも口にしていたのだ、きっとあれに間違いないだろう。
だが、京が推理して出した名前では意味がない。
本人が、それを言葉に紡ぐ必要がある。それでいてはじめて、真名は真名としての役目と重みを持つのだ。
「……」
言葉を待つ京。これは賭けだった。
相手が乗ってくれればよし、でなければ、そこまでだ。そんなに重要なことだろうかとふと疑問に思ったが、それはなかったことにして押し込めた。
「……私の名前は、真」
「まこと……?」
「そう。嘘いつわりなき、真実を映し出す鏡。疑うことを知らない愚かな生き物だと、笑われるわ。それゆえに、大切なものをたくさん過去に置いてきた」
「……」
「桂、いえ、京。名前の音というものは、とても大切なものよ。異国を旅し世界の果てを求める私達には、字を覚える余裕はあまりないの」
「それでも、音はそのままで伝わる……単純だけれど、大切なもの」
「そう。とらわれても、貴方はまた戻ってきてくれた。私の名前を、真実(ほんとう)の名前を――お願い、忘れないで」
――約束が二人をわかつとしても、それだけは手放さないで。私が、そうしたように……ずっと。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴