PLASTIC FISH
00.凍てる蝶(2/2)
その時、言葉を失った。
眠りも浅く、まどろみから浮き上がるとそこには黒髪の女――いや、女と形容すべきなのかもわからない。
シーツから顔を出したばかりの自分の頬に触れる空気は冷たくても、それを打ち消すほどその人物の目は深く赤く、興味や関心に濡れてそこにあり。
――何故?
何故、私はこの人が今この瞬間私という平凡な人間に対して興味を抱いているとわかるのだろう?
考えることこそできるが、動くことはかなわない。ここで動けば、それは抵抗ということになるのだろうか。何を拒む? 何を嫌がる?
「……い」
暗闇に慣れた目が、相手の左手が動くその瞬間を追う。
黒くひじ上まである長い手袋に包まれた手が、指が、ゆっくりと伸ばされ、私の頬に触れる。ただよう空気より暖かく、人の肌より冷たい。
「けい……けいなの?」
けい。
誰だろう。どこかで聞いたようななつかしさを覚えるも、家族や親戚、今まで関わってきた人達にその名前を持つ者はいない。
ああ、面倒になってきた。意識を今すぐにでも手放したい。眠りの世界へ、深く終わりのない真っ暗闇へ。
「けいだとしたら、あなたは何をしてくれるんですか」
「……」
相手は答えない。まっすぐに向けられた瞳の奥に、孤独が広く凍り付いているように感じた。
もう一度、問う。
「私が、あなたの言う『けい』だとしたら、あなたは何をしてくれるの? 私は……目を閉じていたい。帰れない場所まで、行きたい」
「いいのね?」
「え?」
あまりの返事の早さ、そして迷いのない確認の問いに、聞いた私が驚いてしまった。男性らしいとも女性らしいとも言いがたい、それでも耳にやさしく溶ける声。
次の瞬間には、その誰かはさきほどとはまるで違う力強いまなざしをこちらに向けていた。個室ではないのに、他のベッドまでがとても遠く感じる。
まるで、私とその誰かの二人以外、この世に存在していないかのように。隔離されて一時的にではあっても私が望む遠い場所にいるように。
「いいのね、と聞いたのよ。私とこれ以上関われば、人の世界に戻れるかも危うくなる。けれど、今なら――今ならまだ、戻れる」
「……?」
距離が、顔が、ぐっと近づいた。胸の鼓動が一瞬大きな波を繰り出して、すぐに元通りになる。つまるところ私は、驚いた。
「今あなたが私を拒めば、この夜に起こったことすべてが夢ということにできる。けれど、今夜の私をあなたが忘れなかったら、その時は」
「……その時は?」
「これから何が起こっても、それは現実よ。私もきっと、今夜のことは夜が明ければおぼろげな記憶になる。だって、今の私はとても弱いから」
「……」
息を吸っては、吐く。呼吸は乱れていない、けれど言葉が出ない。
相手が誰で、何を思って、私をどうしたいのか、わからないのだ。確かに、夢を見ているといわれれば納得できる。
檻に望んで入った自分でも、たまに空想することがある。幽霊の噂を聞いた時もそうだった。怖いけれど、会いたい。引き寄せられる赤い糸が、私の返答次第で――縄になる。きっと、それを選ぶ時がきたのだ。
「けれど……ずっとあなたを探していた。私が私に戻っても、あなたは受け入れてくれるかしら? いいのね、本当に」
「……。いいよ。なんだって、かまわない。今更何が起こったって」
――真。貴方は、本当に馬鹿。数十年、いや百年経ったのかしら? そんな昔のちっぽけな約束じゃない。時効よ。自由に生きなさいと、言ったのに。
両手を、包み込むように握られた。
力強くもやさしい、哀しき祈りにも似た約束。届かぬ願いが、私の返事一つで繋がろうとしている。私の名前――なんだったかな。
「けい……桂」
ああ、そうだ。私の名前は、今のものじゃないけれど、そんな頃もあった気がする。
もやがかかりぼやけていく視界の中で、私の口が、私の声で私の知らない名前を紡いだ。
「……まこ、と……?」
「目が覚めても、私を覚えていて。いつか会える。忘れないで、どんな形で出会うことになっても、私を――」
受け入れて。そして、許して。
そう言われたのか、自信がない。そして自分は、この乾いた唇でいったい誰の名を呼んだのだろう。
意識は、溶けるように途切れた。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴