PLASTIC FISH
03.きざし、ほころび(5/8)
「蛍原先輩」
先輩、と言うがその声は無愛想なものだった。だがそこに嫌味の類はない、ただ京の素が出ているだけである。
おべっかや社交辞令を使わない彼女は、時々おかしなものを見る目で見られることがあった。だが、小さい頃からだ。慣れている。
「ああ。みやちゃん、数日ぶり。今の状況誰かに聞いた?」
振り向いて、一つにしばった黒髪がふわりと揺れる。蛍原誠(ほとはらまこと)は、京と比較的親密な関係にある良き先輩だった。
京を『みやちゃん』などと、あだ名で呼ぶのも彼だけだ。眼鏡の向こうにある表情には、少しの疲れが見える。いつもはコンタクトをつけているのに――そんな余裕も時間もなかったのだろう。
「B室が立ち入り禁止だそうで。ああ、あと確証はないんですが……第一エリアに入るカードキー認証の扉や機械が、新しくなっていたような」
「当たり。数日前、お仲間だった奴が馬鹿やらかしたみたいでね」
「犯人が割れるの、早かったんですね」
「そうだなあ。まあ、複雑に張り巡らされた電力供給のコードを見事な手さばきで断っていたし、短時間でここまで辿り着けるのは内部の人間しかいないよ。ただ、入り口と備え付けてあった監視カメラをおじゃんにした理由は謎なままなんだけど」
「(ああ、それで電気が一部通ってないのか)」
「それよりみやちゃん、ここに来るまでになんか言われなかった?」
「はい?」
目は手元にある書類の束に向けられ、それが見る見るうちに手の内から机へと移されていく。内容は窺い知れない上興味もないが、おおかた『アダムとイヴ』関連のものか今回の事件に関するものだろう。蛍原の速読は、縁のある者のほとんどが認める確かなものである。
京と話しながら同時進行している今もきっと、頭に文章を叩き込む精度はまるで鈍っていないのだろう。そんなことを繰り返していた蛍原が、休憩といわんばかりに顔を上げ、京を見た。
「内部の人間で、しかもみやちゃんは異変が発覚した朝からずっと無断欠勤だったからね。一番に疑われるだろ、そういうの」
「ああ、なるほど……」
何故、言われるまで気付かなかったのだろう。考えてみれば当たり前だ。今日の話を聞くに、自分は犯人と時刻的にすれ違いになっていることになる。
巻き込まれもせず、疑われもせず、野ざらしにされている――不自然すぎて、逆に調和がとれている。
「まあ、みやちゃんに連絡がいく前に相手が自首してきたけどね。あんだけ派手にやらかしたくせに、怯えてたよ。まるで化け物でも見たみたいに」
「……はあ。それで、その人は今どこに?」
「どこにって? ここだよ、ここ」
言いながら、真上を指差す。
「ここより上の階って、あったかしら……」
「あー、建物じゃないよ。もっと上、ついでに言うなら、体は本人の希望通りこのとうとき研究の一部に組み込ませてもらった」
「ああ、そういう」
気のせいだろうか。
言われてみれば、この階には死臭と――なんというべきか、瘴気が満ちている気がする。蛍原の明るい雰囲気に流されてついつい忘れてしまうが、ここは地上にある地獄なのだ。狂気と希望に満ちた、ストロベリーフィールズなのだ。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴