PLASTIC FISH
03.きざし、ほころび(1/8)
「う、ん……」
夢のさなかから引きずり出され、京はのろのろと目の前の目覚まし時計を見た。
学生の頃から使っている、もちのいい時計だ。当時流行っていたキャラクターものだが、京にとっては時計と目覚ましの役割さえ果たしてくれればなんだっていい。
今の位置からでは時刻が見えなかったため、時計を持ち上げ眼前まで引き寄せる。四時前。まだ、夜が明けるまでしばらくの時間がある。
さて、今日は何曜日だったか――今日するべき用事はなかっただろうか。
目をこすりながら、寝ぼけたままの頭で考える。
「(喉、渇いたな……)」
まどろみから抜けきれない頭は、寄り道をしてもなんら指摘のサインを示さなかった。ごそごそと布団から這い出し、立ち上がる。
自室を出たのち、京の足はまっすぐに台所へと向かった。
「……」
冷蔵庫を開けて、再び目をこする。自分はこんなに寝起きが悪かっただろうか――なんだか、随分と長い間眠っていた気がする。
そんなことを考えながら、視線に入るのは、水、緑茶、あとは飲み物のカテゴリとしては程遠い。確か、すみにおさまっている小さなペットボトルの緑茶は自分専用のものだ。
京は黙って、そのペットボトルを取り出し冷蔵庫の扉を閉めた。部屋の唯一の明かりが、静かな音とともに断たれる。
「(……おかしいな)」
一口飲んで、感じる違和感に二口目をためらう京。いつもの飲み慣れた味なのは確かだ、だが、何故だろう? 物足りなく感じる。
もっとこう、なんというか――なんといえばいいのだろう。自分が求めているのは単なる水分ではなくて、直接命に繋がってくれるような。
そう考える京の目に、ペットボトルを持つ自分の手が目に入った。凝視する先は手首。
視界が手首をとらえた瞬間に、わずかではあるが走る純粋な食欲。本能による欲求、欲する望み。
「血?」
そんなまさか。
確かにいのちの『ち』、ちからの『ち』ではある。高い栄養を持っていることも知っている。だが、ヴァンパイアフィリアになった覚えはない。
ペーター・キュルテンや、フリッツ・ハールマン等の人物に憧れたこともない。
「……」
肌の下の血管を意識しているうちに、京は変な気分に侵食されていくのを感じた。きっかけの一つもないのに、自分が自分の知らない誰かになってしまったような気がする。
眠る前までは普通だった。
ちょっと野暮用だからと、夕暮れ時に母に見送られながら家を出た。仕事場に着くなり、PCを立ち上げて打ち込む予定だったものを手早く入力した。
その時にはもう、辺りは真っ暗だったような気がする。寄る場所もなく、自分は帰宅部さながらの余裕なタイムスケジュールで帰りの電車に乗った。
闇に包まれた世界を、ごとん、ごとんと電車が辺りを照らし進む。そしていつもの駅で降り、帰宅した瞬間に何故かどっと疲れが出て――ご飯はいらないと言って、自室にひきこもった。
そして、気が付くと寝ており――こうして夜中、喉が渇いて起き出したというわけだ。何の不思議もない。
「(面倒だ、寝よう……)」
また起き出した時のために、ペットボトルは自室へ持っていくことにする。
真夏でもあるまいし、夜明けまで数時間放置していても痛む心配はないだろう。目覚めればまた、日常が待っている。
一つ小さなあくびをしたあと、京は物音をひそめながら自室に戻っていった。
境界を踏んでしまったものが、ここに一人。
鈴の音響く人外のための夜が、また一つ――終わろうとしている。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴