PLASTIC FISH
02.かりぬい(4/7)
だからこそ、京は見た。
そこで起きている、はじまりから終わりを、全て。
「ふん。あなた、どこから流れ着いた新参か知らないけれど、私の領域に踏み入って随分とかわいらしいいたずらをしてくれたものね」
ヒトガタが人の言葉を、日本の言葉を慣れた様子で紡ぐ。
右の手に付着した男の血を興味なさそうに見やった後、捨て置いた。京にはその表情に、汚らわしいものを見る目つきが混じっているように思えた。
「や、やめ……殺したのは謝る、代わりが必要なら持ってくるよ。だから、だから……」
「お前」
「へ……?」
「お前、と言ったのよ。一つ教えてあげましょうか。私が今、右腕を使ったのは何故だと思う?」
うろたえて聞くに堪えない男と違い、ヒトガタは何事にも動じず、口調には絶対的な余裕が漂う。声はまるで闇夜を這う風のように、京の耳にもはっきりと届く。
それは既知のものより不気味で恐ろしく、それは未知のものより魅力的で感ずるに甘い。
「み、右? えっと……」
「残念、時間切れ。さあ、夢のはじまりよ……存分に、愉しみなさいな」
言葉が言い終わらぬうちに、ヒトガタの姿が消えた。京は必死に、右へ左へその姿を探す。天井を見上げたその時、視界の端に黒く揺れる美しい髪の一部が見えたような気がした。
第一の夢のはじまりを告げるのは、壁が崩れる音。視点を合わせると、そこには宙に浮く男の姿。壁にめり込みながら、苦しみのたうつ姿。
「解答の時間よ、野良犬。私が右を使ったのは――それが」
男の首を、嫌な音を立てながらヒトガタの左手が絞め上げていた。蛇のように絡んで離れないそれは、男の顔が蒼白になろうと緩まない。
「利き腕じゃないからよ」
残酷に、言い放った。
男の体が、これで何度目になるのか――吹き飛ぶ。蛇の手を離れたそれは、もはや体重がどれだけであろうと関係なかった。
重力ですら、彼が吹き飛ぶさまを止めることができない。
「あ……」
京の喉から、自然と音が漏れた。今度は、全てがスローモーションになることはない。まばたきすらできないほどの刹那に、第一の夢が終わりを告げんと鐘を鳴らしていた。
男の体が、展望台と称されるほどの大きなガラスを砕き、割り、その向こうへ――宙へ。
落ちる。
それを予感するなり、京は無意識に両耳をふさいだ。非人道的な仕事に手を染めていたとて、人の形をしたものが高所より打ち付けられて石榴に変わる音など聞きたくなかった。
「(何が、起こってるのよ……!)」
聴覚だけではなく、視覚をも遮断する。これでもかと強く落としたまぶたは、現実を見まいと強い意思を持って京の体の一部として生命の鼓動を感じている。
「……」
そんな京のさまを、ゆっくりと距離を詰めながらヒトガタは冷たく見下ろしていた。
こつり、こつりとブーツが床と接触するたび音を立てる。遅れて、しゃん、しゃん、と鈴の音が足音を追いかけるように続く。
部屋に再び、静寂が訪れた。
だが、まだ現実という名の悪夢は終わらない。死ぬまで瞬く、黒い夢。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴