PLASTIC FISH
01.幻日(10/10)
「……を、くれよ……このままじゃ殺されちまうよ……痛いよ……」
予想通り、若い男だ。Tシャツにジーンズというラフな格好で、いや、そんなところを見ている場合ではない。
右肩と、あばら付近。そのあたりから血が流れ出しているのか、真っ黒に染まっている。弾は当たっていたのだ。
死ぬ気になればなんでもできるというが、それにしても過ぎている。銃弾の痕だけではない、体中に傷ができて――目からは頭部の出血が入ったのか、血の涙が流れつづけており、その他にも損傷箇所など数え切れないくらいある。
人間ならば失血死している、そうでなくとも意識を失ってしまうであろうこの状況で、何故ここまでこの男はこんな力を出せるのか。
「離し…なさい…っ!」
京も黙って見ているだけではない。力の限り抵抗し、二人はもみ合いになった。女であれど、傷負い相手に一方的に負けるほどだらしなくはない。
しかし、男の力はあまりにも人間の力を超越しすぎていた。
なんらかの方法で限界を外せば人間もこれくらい出るだろうが……そうなるには条件が足りなさ過ぎる、そして、不自然すぎる。
「姉ちゃん、助けてくれ……あいつが……あいつが来ちまうよ……やだよ、死にたくないよ……」
男はもう、京の言葉を聞いていない。
ただ、何かに怯え、異常な力を発揮し京をねじ伏せている。
男の口が、普通ではないほどに伸び尖った犬歯が、抵抗しつづける京の首元へと近づいた。
ああ。
自分はこのまま強姦されるのだな、と京は思った。とっくの昔にまともな思考回路は麻痺している。ただ、こんなひょろっちく手負いの男にやられるのは色んな意味で嫌だ。
薄い雲におおわれていた満月が、その狂気をあらわにしようと輝いている。
「(吸血鬼に噛まれたら吸血鬼になるって言うけれど、人間に噛まれたら……ただ痛いだけよね……)」
嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、絶対に嫌だ。
必死に、京は男の顔を正面から手を押し付けどかそうとする。一ミリでも遠く、汚らわしいその吐息から逃げるように。
「早く……早くしないと、クソ、人間のくせに偉ぶりやがって!」
京の体が、デスクから離れ、吹き飛んだ。
人間ほど重い生き物が『吹き飛ぶ』というのは、どれだけの力を加えれば可能になるだろう。それも、数メートルだ。
吹き飛ばされた彼女はというと、いきなり宙に浮いて、直後に痛みすら感じなくなるような鈍く強い衝撃を受けて、床へ落ちた。
壁に激しくぶつかったせいで、彼女は立ち上がれない。立ち上がれるはずもない。あとから、全身が痛みを訴え始める。止まらない。
「……か、げほっ! う……」
数度の咳、そして激しい嘔吐感。床に広がった吐瀉物は、真っ黒だった。
「(血……)」
骨が折れているのはなんとなくわかったが、内臓さえもここまで傷ついているとは。何週間入院して、一体いくらかかるのかと京はふと考えた。
「血を……そうだよ、その血をくれればよかったのに……ここまでしなかったのに……楽に死ねたのに」
男が、ゆらゆらと近づいてくるのがわかる。
『楽に死ねたのに』。
「(ああ、私は殺されるのか……入院代より、葬式代を考えないと……)」
走馬灯、とでも言うのだろうか。
今からお前は死ぬんだと言われて、京はそういったものが脳裏を過ぎていくのを感じていた。薄れゆく意識の中に、さまざまなビジョンが浮かんでは消える。
友達――は、思い出すほどいない。
親戚――は、思い出すほど覚えていない。
父さん。
母さん。
今朝見た、鏡の中の人。
そして。
そして。
――何度も夢に見る、おぼろげな向こうにいる大事な人。忘れてはいけない人。約束を――約束? そんなもの、いつ……。
作品名:PLASTIC FISH 作家名:桜沢 小鈴