挽歌 - 小説 嵯峨天皇 - 第一部
藤原氏には、四つの流れがある。式家(しきけ)・北家(ほっけ)・南家(なんけ)・京家(きょうけ)であり、八十年程前、文武(もんむ)天皇の治世に右大臣として権勢を誇った藤原不比等(ふひと)をその祖とする。
桓武の立太子に力を尽くしたのは藤原百川、その娘旅子(たびこ)は桓武の妻、安殿の母で皇后の乙牟漏は百川の姪、暗殺された種継は百川の甥で乙牟漏の従兄(いとこ)。まさに式家藤原氏の団子である。
佐伯氏、大伴氏はこの事件において名指しで首謀者に挙げられ、政治の場から一掃されてしまった。
そして、四日が過ぎて、午後八時頃、最後の仕上げが行われたのである。
東宮御所に、権(ごん)少納言藤原乙叡(たかとし)と、武器を携えた衛士(えじ)が三名、踏み込んだ。
「親王、おそれながら勅命により、御身拘束いたします」
「馬鹿な!」
早良は読んでいた文巻を取り落とした。彼はこのとき四十二歳。普段あまり動揺を表すことのない白い顔が、そのとき床にのびた文巻の紙のごとくに色を失った。
「明日にも御身への御処遇、申し上げまする。まずはこの東宮御所を退出頂くことが定まってございます。しばしのご猶予を差し上げるようにとのご沙汰でございますので、御身の周りのことなど、お済ませ下さいますよう」
事務的な口調で乙叡がそう言うや、早良の顔に朱が走った。
「この度の騒ぎの醜さ、とても聞くに堪えぬ。何の理由もなく、どれだけの命を奪ったのだ」
「確かな事実と証言に基づいての朝廷の裁きに、異議を唱えられるおつもりですか」
「何が確かな事実と証言だ! 何もかもが捏っちあげではないか、恥を知れ!」
「主上の使者として参上いたしたこの乙叡を、侮辱なさるおつもりか。それとも直接、朝廷を侮辱したとみなして差し支えございませぬのか」
「乙叡―――」
早良は言葉を失った。
もはや自分は東宮として遇されてなどいない。支えてくれた者たちの大半は身に覚えのない罪のゆえに処罰された。もはやわたしには、誰もいないのか。
「主上に……兄上に会わせてくれ」
ようやく、早良は言った。乙叡は容赦なくそれを切って捨てた。
「それはかないませぬ」
「一度、ただの一度でよい、会わせてくれ。会って話さえ聞いて下されば、わたくしが潔白であること、すぐにお判りになるはずだ。潔白であるからこそ、こうして逃げも隠れもせずにここで控えておるのではないか。一度でよい、それで足りるのだ」
「今一度だけ申し上げますが、それはかないませぬ。主上は最も信頼されていた臣下の死にいたく御心を痛められ、臥せっておられます。その死に関わるものは、一切見たくないとのきつい仰せですゆえ」
「わたくしは、種継の死とは何の関わりもない!」
乙叡はもう早良の言葉には耳を貸さなかった。
「夜は短うございます。―――さあ、お支度をなされませ」
潔白であるかどうかなど、桓武自身が一番よく知っている。早良は、潔白である。
事は、既に決していたのだ。
☆
早良は翌日、東宮御所から長岡京郊外の乙訓寺に移された。そして十日後、淡路島に流罪を言いわたされ、舟に乗せられた。
拘束されてから、彼は一切食事を口にせず、日々衰えていった。肉は落ち、紙はばさばさになり、さながら幽鬼のようになりながらも、彼はひたすら血を分けた兄に訴え続けた。
「兄上、どうかわたくしの話をお聞き下さいっ!」
苦しい息の下で、喉を嗄らして叫び続けた彼は、淀川を下る途中、息を引きとった。そのことは桓武に伝えられたが、桓武は、
「生きていようが死んでいようが関係ない。そのまま淡路に流せ」
と命じ、遺体を淡路島に埋葬させたのである。
☆
佐伯今毛人はこの翌年に、九州の大宰府に流された。
大伴氏で、歌人としても名高い大伴家持は、東宮大夫として早良に仕え、参議、中納言を務めた人物である。その彼は事件の一年前に六十六歳の高齢で持節征東大使に任じられ、都から遠く、東北に下っていた。しかも、事件の前に既に亡くなっている。にも関わらず、事件に関係したとして生前の官位を剥奪、平民に落とすという処分を受け、その子も流刑に処されるなどしている。
この佐伯・大伴つぶしの徹底ぶりに、藤原氏もさることながら、桓武の一度決めたら決して後には引かぬ果断さがよく判る。
自身式家の出身である乙牟漏は、そんな桓武を、じっと傍で支え続けてきたのである。
作品名:挽歌 - 小説 嵯峨天皇 - 第一部 作家名:深川ひろみ