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深川ひろみ
深川ひろみ
novelistID. 14507
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挽歌 - 小説 嵯峨天皇 -  第一部

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第一章 春霙哀歌(3) - 悲報相次ぐ -



「……にうえ……」
 ひとりになると、いつも聞こえる。
 遠く、遠くから響いてくる声。
「兄上……」
 背中に投げかけられる、声。
 振り向いては、ならぬ。
 振り向けば、捕まってしまう。
「兄上……」
「兄上……」
 こだまのように重なりあう。ねっとりと背にまとわりつく、闇。
 闇……
 わしを、呑み込みにくる。
 不意に。
 別の声が、また背後で聞こえた。
「許しておくれ……」
 老婆の声だ。泣いている。
「許してやって、おくれ……」
 あれは……
「哀れな子じゃ……」
 あれは……

          ☆

「……母上……」
「―――え……」
 呟きに、乙牟漏は身体を起こした。傍らに横たわる夫を見る。
 夜である。
 閉じていた桓武の眼がふ、と開いた。乙牟漏を見とめ、焦点を合わせようとするように軽く眉根を寄せる。
「――――ああ……」
 吐息に近い声が、その唇から洩れる。
「夢でもごらんになりましたか」
 乙牟漏は優しく言った。
「夢……そうだな、夢を見ていた」
 桓武は半身を起こし、妻を見やる。
「わしは、何か言うたか」
「「母上」―――と……」
 桓武は息を吐き出す。
「そうか……」
 室内は暗いが、闇ではない。ゆっくりと、目が慣れてくる。彼は手を伸ばし、妻の華奢な肩に触れた。その温かさを確かめ、少し安堵する。
「お酒を召し上がりますか」
「そうだな、頼む」
 乙牟漏は上着を羽織って立ち上がると、棚から酒と杯(さかずき)を取り出した。早良が死んでから時々望むようになった夫のため、乙牟漏は部屋に備えておくようにしていた。そして衝立向こうに控えている女官に指示し、灯りを持ってこさせる。
「どうぞ」
「ん……」
 桓武は勧められるままに一口ぐい、と呑み、再び深く息を吐き出す。
「もう、三カ月(みつき)になるな……」
「ええ。年の暮れ、寒い頃でございました」
「雪がずいぶん降っていた。静かな晩だったな」
 桓武の生母、高野(たかのの)新笠(にいがさ)は、昨年の暮れに没している。早良の死以来、めっきり身体を弱くしてしまった老母は、寝たり起きたりを繰り返しながら五年を生き、ひっそりとこの世を去ったのである。

          ☆

「この、鬼め!」
 早良が乙訓寺に移され、淡路に流されたと聞いた新笠は、皺だらけの顔を涙でぐしょぐしょにして、桓武をののしった。
「あの子が謀反を企てるような子かどうか、そなた判らないはずはないじゃろうがっ!」
「わたくしとて信じたくはございません。しかし、確かな証拠が出ました以上は、放っておくことはできません」
「何が証拠じゃ! そんなにまでして子供を東宮にしたいのかっ!」
 老母は激怒した。手当たり次第に桓武に物を投げつける。紙、筆、硯箱―――硯箱は桓武の足元で弾け、中身が飛び散った。
「こ……皇太后さま、お心をお鎮め下さい」
「主上! お怪我はございませんかっ」
 周囲の者たちはおろおろする。何を言っても今は無駄と判り、桓武は黙っていた。
「仮にも父母を同じくする弟に罪を着せて島流しにするなぞ、お前は鬼じゃ、顔も見とうない!―――ああ、早良、なんと可哀想な子……」
 ぼろぼろと涙を流し、そのまま床についてしまったのである。
 しばらくして早良の訃報が届いた。新笠はまたおびただしく涙をこぼし、遺品となった経文をもらい受けた。
 渡来人の家系である新笠は書をよくする。少し体調のよいときには机に向かってそれを広げ、一心に写経をするようになった。
「顔も見とうない」
 そうは言ったものの、桓武も早良も、新笠にとっては愛しい息子だ。早良の落ち着きと優しさも愛おしいが、彼は十一歳で出家してしまっている。手元に残った桓武、やんちゃで、「いかにも男の子」といった風貌の桓武には、ひときわ愛情を注いできた新笠である。
「早良や、山部(桓武の諱(いみな))を赦してやっておくれ……。哀れな子じゃ、お前も、山部も……。仏さま、哀れな子らを、どうぞお救いくださいませ……」
 写経をしながら、ただただ、そう繰り返し続けたのである。
 お世辞にも信心深いとはいえない桓武は、その話を聞いたときには苦笑したが、止めることもできずに放っておいた。
 その母が、死んだ。
「お前のこと、よくよく謝っておくからな……」
 誰に、とは言わなかった。早良にか、仏にか、それともほかの誰かにか、桓武には判らない。その言葉を最後に、新笠は眠るように息を引きとった。

          ☆

 母上は、謝っているのだろうか。あの世とやらで。
『早良、赦してやっておくれ……』
 そう言ってくれる者は、もういない。
 そう思うと、背筋を冷たいものが走った。
 辛抱強く自分を支えてくれる乙牟漏は、安殿の母。しかもあの事件では早良を死に追いやった我々の側、式家藤原氏の女だ。彼女は事件のことを語らない。関わったとも、そうでなかったとも。知らなかったはずはない。あの一件のおかげで、東宮の母となった女だ。
 ただ、こう言った。
「わたくしは、どこまでも主上と共に参ります」
と―――
 どこまでも。
 どこまでも、進んでゆく以外に、ない。
 わしが、帝なのだ。

          ☆

「神野は、母上に似たのであろうかな」
 ふと昼間のことを思い出し、ぽつりと桓武は呟いた。乙牟漏もすぐに思い当たったらしく、微笑する。
「書も、楽も、詩も、文事のことには一通り興味を示すようですのよ」
「賢い子だ。安殿をよく慕っておるし。―――仲良うやってくれるだろう。なあ、乙牟漏」
 半ば、祈るような気持ちだった。
「あの二人を、頼むぞ」
「お任せください」
「うむ」
 ようやく、桓武は表情を和らげる。乙牟漏の膝枕で、ごろりと横になる。
「心安うなされませ。大丈夫ですわ」
 そんな乙牟漏の声を子守唄に、酒のかいもあって、彼はそのまま二度目の眠りに落ちていったのである。

          ☆

 乙牟漏は、夜明けに自室に下がった。
 桓武は正殿で政務を見ていたが、日が高くなってから、その下に後宮からの使者が参上した。
 桓武は、蒼白になった。
「馬鹿な、わしは信じないぞ!」
 乙牟漏が、急死したのである。

          ☆

 後宮は、騒然としていた。
「乙牟漏!」
 桓武はわずかな伴を連れて駆けつけたが、既にその身体は冷たくなっていた。彼は遺体をかき抱き、叫んだ。
「乙牟漏、何故だ!? ―――何があったのだっ!」
 心安うせよと言ったのは、そなたではないかっ!
 乙牟漏に仕えていた女官が震える声で言った。
「わたくしどもにも全く判らないのです。先ほど突然苦しまれて……あっという間に……」
「心の臓の発作ではないかと思われまするが……」
 先に駆けつけていた医師はそう言って困惑する。
「あまりお強い方ではなかったが、それでもこれほど突然に……」
 そこへ、知らせを聞いた安殿が飛び込んできた。
「母上っ!」
 現場を見て、報告が事実であると否応なしに思い知らされた安殿は、その場にへたりこむ。その眼から、涙がぼろぼろとこぼれた。
「こん……な……!」
 そのままずるずると、桓武が抱いている遺体にいざりよる。