挽歌 - 小説 嵯峨天皇 - 第一部
第一章 春霙哀歌(2) - 早良親王の死 -
『くれぐれも、兄弟仲よくな』
そう言う桓武が、同母弟であり、前の東宮であった早良(さわら)親王に罪を着せ、死に至らしめたのは、延暦四年(七八五年)―――今から五年前のことである。
☆
天応元年(七八一年)、父光仁(こうにん)帝の譲位を受けて桓武は帝位についた。そして東宮位についたのが、当時三十八歳だった早良親王である。
早良は色が白く、女性的な顔立ちの美男だった。十一歳で剃髪して仏門に入っていたため、「親王禅師」と呼ばれており、信仰心篤く、どちらかというと学者肌の、非常に落ち着いた人柄である。父光仁帝の意向を受けて東宮位についたのをきっかけに、このとき還俗することになった。
東宮となった彼は、ときに政務を代行することもあったほどで、よく桓武を補佐した。そんな中で、桓武がどちらかというと藤原氏を重用していたこともあり、早良の傍には、どちらかというと大伴氏や佐伯氏出身の側近たちが自然と集まるようになっていったのである。
そして、約一年が過ぎた頃のことだ。
早良は政務代行の都合上、側近で、当時非参議という非公式の立場で朝議に参加していた佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を参議に取り立てたいと願い出た。参議になれば俸禄も多くなり、格がぐんと上がる。今毛人はこのとき既に六十四歳。早良は政務を代行する上で頼りにしているこの老側近に、正式に台閣の一員としての地位を保証し、労に報いたい、と考えたのである。
しかし、ここに桓武の側近、藤原種継(たねつぐ)という男から、横ヤリが入った。
「佐伯氏から参議というのは前例がない。見合わせてほしい」
実に判りやすい主張である。そしてその主張を、桓武はなんと聞き入れたのである。
これまではあまり桓武と対立らしい対立をしたことがなかった早良であるが、この件にはさすがに抗議した。
「主上、今毛人はわたくしとともに、御身を補佐申し上げることに尽くして参りました、大切な側近でございます。それを正式に遇したいというのが、何故に通らないのですか。何故、種継ごときがそれをとどめるのでございますか」
桓武‐藤原氏と、早良‐佐伯・大伴氏という対立の構図が次第にはっきりとしてくることになったのは、この頃からである。
桓武と早良は、もともと仲が悪かったわけではない。水と油ほどに性格が違うことから、かえって馬が合い、
「なあ、早良。安殿がそなたのように落ち着いた大人になるよう、よい書物などないものかな」
と、桓武が尋ねることもあった。すると早良の方も、
「では、何か興味を持って頂けそうな物語など、経典からお探ししておきましょう」
と快く蔵書をひもといては、安殿に仏典の話など判りやすく説いて聞かせたりもしたのである。
だが、帝位が絡むとなると、話は少し違ってくる。
早良の立太子は父光仁帝の意向である。四十四歳で帝位についた桓武にとってはもともとあまり面白いことではなかった。長男安殿も七歳になっており、その我が子をさしおいての弟の立太子なのだ。
しかも、その命令には、光仁帝は自分に対してよりも、早良に対してより強い信頼を持っているのではないかという疑念を抱かせるものがある。まさか長男をさしおいて次男を立太子させはしないにせよ、後々のことまでいちいち指図されることが、桓武にしてみれば非常にうっとおしい。
もっとも、光仁帝にも、一応言い分はある。
彼にしてみれば、早良への信頼もさることながら、六十九歳という明日をも知れぬ高齢の身で、七歳という海のものとも山のものとも判らぬ子供に後事を託すのは不安だった。しかも安殿は癇が強く神経質で、落ち着きのない子供だったのである。そんなわけで、
「よいか、東宮には早良を立てよ。万事兄弟仲良く執り行うのだぞ」
ということになったわけである。
しかし―――
老帝のこの配慮が、結果的には後の惨劇を招くことになった。
☆
延暦四年(七八五年)、晩秋九月。
桓武が平城京から長岡京に遷都してから、一年が過ぎた頃だった。彼は久しぶりに旧都平城京に出かけた。側近たちと共に懐かしい旧都の土を踏み、狩りを楽しみ、色づきはじめた樹々を愛でながら、のんびりと時を過ごしていた。
その天皇不在の長岡京で、事件は起こった。
留守を守っていたのは、早良、右大臣藤原是公(これきみ)、そして佐伯今毛人の参議昇進に異を唱えた中納言藤原種継などだった。
種継は、桓武が最も信頼を寄せていた部下だった。
ここに藤原百川(ももかわ)という人物がいる。桓武はこの人物に大きな恩義がある。
桓武の父光仁帝が即位したとき、その皇后は井上(いのえ)内親王という女性だった。そして東宮はその息子他戸(おさど)親王であり、桓武は当時一親王に過ぎなかった。
百川は、その井上皇后が天皇を呪詛したと光仁帝に吹き込み、皇后の排斥、他戸親王の廃立をやってのけた男である。それによって、桓武は東宮の座につくことができた。井上皇后と他戸親王はもろともに幽閉され、後に殺された。
その百川が従三位・参議という地位で亡くなった後、その甥にあたる藤原種継が代わって桓武の信頼を勝ち取った。桓武とは同い年で、しかも正妃乙牟漏の従兄でもある種継は、桓武帝即位後、三年間で従四位下から従三位、官職でいえば四年間で左京大夫から中納言まで、一気に出世を遂げたのである。
その彼が、この日、夜十時頃、何者かによって暗殺されたのだ。
都とはいえ、桓武が遷都を急いだこともあって未完成の長岡京では、昼も夜も工事の手が休められることはなかった。中納言になったばかり、長岡京建設の責任者であった種継は、この日もいつもの通り、わずかな伴を連れて馬で工事現場を見回っていた。
そのとき、暗闇から一本の矢が飛んできたのである。
それは真っすぐに種継の胸を貫いた。彼はそのまま意識を失い、翌日には息を引きとった。四十九歳の働き盛り、中納言となりいよいよこれから、というときの、突然の死である。
知らせを受け、桓武は驚愕した。急遽平城京から戻ってきたが、既に寵臣は冷たくなっていた。
「草の根分けても、犯人を捜し出せ!」
一夜が明けて、桓武の怒号を受けて追及が開始された。射弓の腕の見事さから、程なく下手人が挙げられ、そして彼らを「厳しく取り調べた」結果、首謀者が判明する。その者たちを「さらに厳しく取り調べた」結果、
「早良親王承認の下、彼の一派が種継を暗殺した」
という「事実」が明らかになった。早良を除く関係者は、斬首を含め、一日で迅速に処罰された。
種継が暗殺されたのは事実である。そして彼の死は、桓武にとって、また藤原氏にとって、大きな衝撃であり、痛手であった。
だがその事件が起こった瞬間、自らの権力の足場を固めたい藤原氏と、己の子、すなわち安殿親王を帝位につけたい桓武はとっさにそれを利用する決心をしたのである。
前に述べたように、早良は佐伯氏、大伴氏と親しくしていた。では桓武は、というと、彼は藤原氏、特に式家と称される流れと関係が深い。
作品名:挽歌 - 小説 嵯峨天皇 - 第一部 作家名:深川ひろみ