その腕にほだされて
気になって聞こうとしても椿本人にというのは気が引けて、最終的に頼ったのは椿の友人でもある菱沢だった。
「せっかく陸也君が、あそこの作品じゃなくて僕に会いにきてくれたと思ったのに、あいつの事が知りたいなんて面白くないな」
本気とも冗談とも取れない微妙な口調。
「…すいません」
「嘘だよ。いじめてごめん。でも、そうやって困っている陸也君も可愛いね」
恐縮してしまう陸也に、菱沢はすぐに微笑んだ。
美術館へ週に一、二回の頻度で足を運んでいるうち、菱沢と喋る回数も増え、たまに一緒にカフェでお茶を飲む仲になっている。椿は仕事の関係上時間が取れなく、一緒に訪れたのは最初の二度だけで、ほぼ陸也は一人で通っている状態だ。
親しくなるうちに食事に誘われる事が度々あり、陸也も時間が早い時は、失礼にならない程度に申し出を受け入れていた。
食後のコーヒーを飲みながら、菱沢は少しだけ遠い目をする。何かを思い出しているのだろうか、口元に微かな苦笑が滲む。
「僕と椿が大学の同級生だっていうのは知ってるよね」
「はい。同じ学科だっていうのも聞いています」
「僕達は油絵をお互い描いていたんだけど、以前の椿は人物ばっかり描いていたんだよ。人が見せるいろんな表情が好きで、それを少しでも表現したいって言ってたな」
「でも、あそこにあったのはどこかの街並みとか、緑が多い場所とか……」
サインは全部椿のものだった。完成品の中に人物画なんて一枚もなかったはずだ。
陸也の疑問を読み取ったのか、菱沢は更に言葉を続ける。懐かしさを含ませた瞳が微かに揺れたのは、きっと気のせいじゃないだろう。
「椿が風景画を描き始めたのは、ある事がきっかけだったんだ」
「……ある事って?」
過去を知りたいという欲求が芽を出す。陸也は菱沢が口を開くのをじっと待った。
もしそれが椿にとって隠しておきたい過去だったとしたら……と一瞬躊躇したけれど、一度芽生えた感情をどうしても摘む気にはなれなかった。
「陸也君は知りたいんだよね。…一つ先に聞いておきたいんだけど、陸也君は椿の事どう思ってるのかな?」
「どうって……」
「自分の気持ちなのに、分からないの?」
いつもの飄々とした態度からは想像できないくらい、真剣さを帯びた菱沢の声色に心が震わされる。
最初は嫌いだった相手。そして、会ってから知った椿の厳しさと優しさに触れていくうち、気がつけば心がどんどん惹かれ傾いていた。
「……多分、好きなんだと思います」
だから、もっと知りたい。
憧憬と恋情を勘違いしているのかもしれない。それでも、椿の傍にいるのは居心地が良くて、離れがたくなっているのを陸也は自覚する。
「そう。だったら忠告してあげるけど、椿は誰も好きにならないし、愛さないよ。だから、君がいくらあいつを好きになったとしても、その想いが報われる日はこないんだって覚えておいてね」
「なんで……」
何か苦痛を抑えるかのような表情と、自嘲気味な笑み。
菱沢は両手でカップを包み込み、陸也から視線を外した。菱沢が重い口を開くのを、陸也はただ待つことしか出来ない。
長いのか短いのか。時間の感覚が麻痺していく。
やがて、菱沢がぽつりと話し出し、陸也はそれにただ耳を傾けていった。
「椿が景色を描くのは、恵理子姉さんの影響だったんだ。菱沢恵理子……僕の姉だったんだけど、六年前に亡くなっているんだよ」
「亡くなってって……」
「もともと心臓に軽い疾患があってね、成長と共に体にかかる負担が少しずつ大きくなってからは、本当に大変だったと思う。きっと、僕が想像する以上の苦しみだったんだろうけど、姉さんは辛いとか苦しいって弱音は一切吐かなかった。それどころか、美術教師として毎日を楽しそうに過ごしていたな」
それでも、自分の一部が欠陥品なのは紛れもない事実で。
普段は優しく温和なのに、絵に対しての情熱は人並み以上だったらしい。
椿は菱沢経由で恵理子と知り合い、やがてそれが恋へと変化するのに時間はかからなかった。
社会人の姉にとって、年下で大学生だった椿は弟と同列とにしか並べられなかったらしいが、椿の積極的で強引なアプローチもあり、結局付き合う事になった。それからの椿は、恵理子が休みの度に菱沢と三人で車で遠出をし、そこで絵を描いて過ごす日々が続いていた。
「姉さんが見た風景を、自分も描きとめておきたい、そう考えていたのかもしれないな。あの頃のあいつは、それこそ夢中で描き続けていたよ」
「……」
「でも……あの事故があってから、椿はいっさい絵を描かなくなった」
菱沢がカップをソーサーに戻す。
過去に受けた痛みのせいか、菱沢の表情が微かに翳り、陸也は息苦しさを感じた。ここまで聞いておいて、今更もういいだなんて言い出せない。他人から語られる椿の過去は、きっと陸也の想像以上に辛いものだろう。
「事故の数日前に、姉さんと椿が喧嘩したみたいだったんだ。絵の道を進みたいくせに、親の言いなりになっている椿が歯痒かったんだろうね。そして反対に、椿は姉さんが羨ましくて、ほんの少しだけ妬ましかったのかもしれない」
「妬ましいって、好きなのにどうして……」
「恋愛と才能は別問題なんだ。……あと、将来もね」
卒業と同時に親の子会社に入るのを余儀なくされていた椿にとって、美大の四年間は会社の為でもあり、椿がただ無心に絵に情熱をかけられる最後の時間だった。だから、どんな形であれ絵の道を進んでいる恵理子に羨望したのだ。
敷かれたレールに乗るのが当然だったはずなのに、心に生まれた迷いが椿を苛む。
言い合った具体的な詳細は、菱沢にも分からないらしい。
けれど、その直後に恵理子は交通事故で逝ってしまった。
情緒不安定だった恵理子は、どこか思いつめていたみたいだと菱沢は続ける。そんな時だったからなのか……ふとした気の緩みが、運転操作を誤らせてしまった。
病気でなくても、簡単に人の命は散ってしまうのだと、菱沢も椿も嫌という痛感した事故だったのだ。
「……で、これがその時の爪痕」
菱沢がシャツを捲り右手の甲を陸也に見せる。
そこには、白いミミズ腫れになった細い筋が肘の近くまで続いていた。筋の両端は皮膚が引き攣り、傷自体が微かに窪んでいるのがわかる。
まじまじと傷を眺めてしまい、陸也は慌てて目を逸らした。
「あの事故の時に、僕も車に乗ってたんだけど……結果は見ての通りだよ。姉さんじゃなくて、僕が死んだら良かったのにって、あの時はよく後悔してたな」
「そんな…っ、どっちがいなくなっても、絶対に椿さんが悲しみますっ」
親友も、恋人も。
どちらも失いたくないに決まっている。
経験した事のないくらいの喪失感。出来ることなら、この先何があっても誰もいなくなって欲しくないというエゴさえ、思わず抱いてしまいそうになる。
「ありがとう。陸也君は優しいね。そういう所も大好きだよ」
「菱沢さん……」
菱沢の右手が、そっと陸也の頬を包み込むように優しく触れてくる。真摯な眼差しと、指先から伝導する熱に陸也の鼓動がトクリと音をたてた。
「あいつを好きになっても無駄なんだ……」
だから。
僕にしてみないか、と。