その腕にほだされて
本気の誘いに、陸也はただ心を乱され戸惑うことしか出来なかった。
課題提出日まで残り僅か。
仕上げの段階までいっていたので、後は最後の色を乗せるだけなのに、どうしても筆が進まないまま時間だけが過ぎていってしまう。
あの日菱沢と別れ、どうやって家に帰ったのかあまり覚えていない。
冗談だと思っていた菱沢の気持ちが本気だったという驚きもあるけれど、一番の原因は椿の過去だった。自分から聞きたいと願っていたのに、いざ知ってしまうとショックを隠しきれないで、故意に椿に会うのを避けてしまっている。
メールでも電話でも、理由をつけては逃げて。でも、日に日に会いたいという気持ちは募るばかりで、最近は溜息の数が多くなっていた。
「そろそろ、僕に相談してくれてもいいんじゃない?」
コンコンと軽くノックが聞こえ、トレイを持った海斗がドアの前に立っていた。柔らかく甘い匂いに顔を上げれば、ホットココアを淹れたマグカップをそっと差し出される。
「海斗……」
「ノックにも呼びかけにも答えないで、ベッドで横になってるなんて重症だよホント。頼りないかもしれないけど、ちょっとは寄りかかって欲しいな」
テーブルにトレイを置き、海斗がベッドに腰掛ける。
日に日に塞ぎこんでいる弟を心配してくれる兄に、どこまで頼ってもいいのだろうか。
けれど、ずっと胸のうちで燻っていたものを吐き出したくて、陸也は海斗の心遣いに慰められながら、この二ヶ月にあった事をぽつりぽつり打ち明けていった。
「ねえ、好きになった人が男の人だって言ったら……海斗は軽蔑するかな」
会えない度に降り積もる感情の熱。
菱沢に告白された過去に対し抱いたのは、悲しいぐらいの寂しさと切なさ。
椿が誰も好きにならないのは、きっとまだ菱沢の姉を愛しているからだ。大切な人を亡くした悲しみと辛さ。そして、きっと今も椿の心根にあるのは、彼女への一途な愛情なのだろう。
「しないよ。陸也が誰を好きになったとしても、それは陸也の意思なんだよね。だったら、僕が口を挟むのは間違ってるんじゃないかな」
にこりと励ますように笑みを向けられ、じわりと胸が熱くなる。
隣に座った陸也を抱きしめ、海斗の手が優しく陸也の頭を撫でていく。
欲しかった言葉と温もり。いつだって、海斗は陸也を全力で甘やかして慰めてくれる。
「幸せにしてもらうんじゃなくて、陸也は自分が幸せにしたいんじゃないのかな。好きな人が笑っていられるように、そんな風に僕の弟なら考えると思うんだけど」
ただ与えられるだけの愛情ではなく、その愛情で相手の冷えた心を包み込んだらいい。
誰も傍にいないのは、あまりにも寂しすぎるから。
(きっと、受け入れてもらえないかもしれない……)
それでも。
忘れられないのなら、その傷ごと受け入れてみせる。
「精一杯頑張ってみるよ。でもさ、頑張って……頑張って、……それでも、駄目だったら慰めてくれるよね」
「その時は、またこうやって抱きしめるよ」
陸也が大切だからねと、もう一度海斗は、ぎゅっと陸也を抱きしめた。
「ありがと」
充分すぎる程に癒してもらった後、陸也は怖気づきそうになる心を奮い立たせ、散々悩んだ挙句に『明日の夜に会いたい』と一言だけ椿にメール送る。ずっと連絡を放棄していたので、返事は返って来ないかもしれないと諦めていたが、それは杞憂に終わった。
一度決めたら、進むしかない。
(……逃げてるだけじゃ、駄目なんだ)
早く明日になればいいのにと、陸也はゆっくりと目蓋を閉じていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
学校もすでに自由登校に切り替わっていたので、陸也は昼から椿のマンションへと向かった。一方的に避けていたのに早く会いたいだなんて、己の身勝手さに思わず自己嫌悪を抱いてしまうが、全部謝罪した後に、ちゃんと自分の想いを伝えようと陸也は心を固める。
それに、課題も……あの絵もきちんと終わらせたかった。
自分自身の進路も。
恋情の行方も。
きっと受け入れてもらえない。椿の目には陸也なんて歳の離れた弟程度にしか映っていないだろう。だから、この恋が成熟するなんて夢を見る気もなかった。
「菱沢さんにも、ちゃんと言わなくちゃ……」
いくら優しくされても、陸也が求めているのはたった一人の相手だ。
手に馴染んだ鍵で、マンションのドアを開ける。アトリエに入り、陸也は部屋の端に見られないように布を掛けて置いていたキャンパスを手に取り、イーゼルの上に置いた。課題を進めるのと同時進行で描いていたのは、柔らかく暖かい笑みを浮かべている椿だった。
スケッチブックにただデッサンするだけじゃなく、その微笑みを色で表現したかったから。
陸也が持つ彼のイメージは鮮烈な紅だが、時折その色が淡くなる瞬間がある。触れば熱いけれど、その熱がじわりと陸也の心を優しく包み込んでくれる。
「さて、描くか」
まずは課題を。そして、その後はこの絵を。
どちらも完成させる事で、一つの区切りとなる。
陸也は画材を引っ張りだし、意識を集中させていった。
一筆一筆色を重ねる事に、迷っていた気持ちがだんだん整理されていき、純粋に好きだという想いだけが陸也の中でしっかりとした形に象られていく。
(椿さん、早く帰ってこないかな)
陸也が最後の色を乗せるのと、その声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。
「ずいぶん熱心なんだね。さっきも声を掛けたんだけど、陸也君気がつかなかったみたいだし」
どれぐらい時間が過ぎていたのだろうか。窓から差し込んでくる日差しは、すでに赤よりも藍色に近かった。
「どうして菱沢さんがここに…?」
「鍵はちゃんと掛けておかないと。ちょっと無用心すぎるよ」
陸也が振り返ると、菱沢がどこか呆れた顔をする。背をドアから剥がし、陸也の元にゆっくりと歩み寄ってくるのを目で追いながら、菱沢の様子がいつもと違うことに陸也は気づいた。
穏やかな雰囲気は微塵もなく、笑みさえもどこか造りめいていて。
綺麗に笑む菱沢に、なぜか背筋がぞくりと粟立つ。
椿をモデルにした絵を眺めながら、菱沢は小さく呟いた。
「これが…今のあいつなんだ。こんな風な表情するんだね、君の前だと」
「……」
苦笑と自嘲が混ざったものに、菱沢の心の痛みが滲んでいた。眼鏡の奥の眼差しが寂しさで揺れているのは、気のせいなんかじゃないだろう。
今の菱沢に、陸也への愛情は感じ取れなかった。
あるのは、キャンパスを通して注がれる椿への想い。菱沢がずっとレンズ越しに見つめていたのは、陸也ではなく……──椿だ。
「……どうして君なんだろう。ずっと、ずっと……昔から傍にいたのは僕なのに」
話すというよりは独り言に近いものに、陸也はただ耳を傾ける。
寂寞さを含ませた口調が胸に響いて、陸也はぎゅっと唇を噛み締めた。人の感情なんて儘ならない。だから、自分の好きな相手が自分を好きになってくれるというのは、奇跡に近いものなのかもしれない。
男女でもそうなのに、ましてや男同士だとしたら、絶対にその確率はぐっと減ってしまう。
「ねえ、陸也君」
「……なんですか?」
菱沢は視線を絵に向けたまま、陸也に話しかけた。