その腕にほだされて
展示室の前で案内をしていた菱沢が、陸也達に気づいて声を掛けてくれる。
「来てくれてありがとう。また陸也君の可愛い姿が見れて嬉しいよ」
陸也は繊細で綺麗な指に目を惹かれたが、すぐに差し出された右手を握り返す。
「おい、勝手に馴れ馴れしく名前呼ぶなよ。戸惑っているだろうが」
「しょうがないよ。興味を持った子には惜しみなくアピールしておくのは、男としての本能でしょう」
静かな館内なので、小さな声も響いてしまう。二人の成り行きを見守っていた陸也だが、菱沢にからかわれているのかどうなのか見極めるのに苦労していると、椿が助け舟を出してくれた。
椿とは対照的に、たおやかなイメージのある菱沢は、眼鏡越しの瞳を柔らかく綻ばせた。
クリスマスの展示は、すっかり雪景色へと塗り替えられている。けれど、以前と同じく技法はバラバラで、大まかに統一されているのはジャンルだけだった。色彩的に派手さはないものの、冬の景色を表現する方法が駆使されており、陸也の心が微かに踊り出す。
館内には、陸也達を含め十人程度しかいない。
「これって、企画か何かなんでしょうか」
陸也は展示室を軽く見渡し、菱沢に尋ねた。
「そうだね、シリーズ化は一応狙ってるかな。同じ作家をクローズアップするのもいいけど、それだったらどの美術館でもやってるよね。だから、ちょっと一風変わった催し物をしてみたいって思って。提案者は僕なんだけど、苦労した分、手ごたえを感じた時は嬉しかったな」
にこりと微笑み、菱沢は部屋の中央にある、硝子ケースに展示された一メートルくらいはある雪の結晶の彫刻を指した。一つ一つ結晶の形も大きさも違うのが五つ。それらを重ね合わせ、一つのオブジェとなっていた。
「あれは発泡スチロールで出来てるんだけど、完成させるのに二ヶ月かかってるんだよ。製作者は趣味で彫刻や陶芸をやっていてね、誰に見せる気もなかったのを、無理やり頼み込んだんだ」
「菱沢さんが、ですか?」
「もちろん。ここにある全部は無理だったけど、それでも出来るだけ足を運んで、製作者本人に承諾を貰いにいったからね。学芸員だからというより、一種の芸術馬鹿なのかもって我ながら呆れる時があるよ」
でも、この仕事に誇りがあるのは言外に滲んでいて、陸也は嬉しくなる。
高潮した気分を抱きながら、改めて展示されている絵を鑑賞する。もともと水彩画が好きなので、興味はそちらに向いてしまいがちだが、他にも趣向を凝らしているものに興味を示せば、菱沢が親切に説明を付け加えてくれた。
椿も真剣に眺めているが、もしかしたらビジネス関係と直結しているのかもしれない。
菱沢はここに勤めているので、最後まで一緒に居られないと残念そうにしていたが、今日は定時に帰れるらしく、よかったらと陸也達を食事に誘った。
「椿とも久しぶりに飲みたいしね。いいかな」
「ぼくは構わないですけど、お酒はちょっと…」
「じゃあ、ノンアルコールでもいいよ。陸也君と一緒だったら、どこでも構わないし」
「菱沢、お前な……」
さっさと話を進めていく友人に、椿はいい加減にしろと割り込んでくる。
「いい加減、仕事に戻れ。…また迎えにきてやるから」
「さすが椿。優しい友を持って幸せだよ。じゃあ、陸也くん。また後でね」
「はい」
優美な微笑を残し、菱沢は館内入り口に設置されている案内図を見ている二人組みの老夫婦の元へ歩いていく。どの展示を回るのか考え中だったらしく、開催しているものの説明と回る順のアドバイスをしている菱沢の声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「まったく。昔から強引なのは変わりないな」
「でも、そうやって付き合えるのって、なんかいいよね。分かり合えてるって気がする」
羨ましいと口にしそうになり、陸也は慌てて話題を変えた。漣立つ心を宥めつつ、これからの予定を椿に問いかける。
菱沢の定時が六時。そして、今は四時を少し回った所だ。あと二時間弱ならば、どこか店に入って時間を潰すのが無難だろうかと考えていると、椿が陸也を買い物に誘う。
美術館を後にして駐車場に向かうという事は、少し遠出でもするのだろうか。
行き先を聞いても着いたら分かるの一点張りで教えてくれない椿に、陸也は焦れながらも観念してシートに身を沈ませる。たまに思うのだが、椿はどことなく秘密主義な傾向があるのかもしれない。
休日のわりには渋滞に引っかかる事もなく、スムーズに車が流れていく。
陸也は椿の横顔をそっと眺めながら、菱沢との砕けた会話を思い出した。時間も年齢も絶対的に埋められないものなだけに、陸也はただ菱沢が羨ましかった。
まだ知って二ヶ月しか経っていないのに。
それでも、心が傾いていくのを、陸也は以前よりもはっきり自覚する。
「着いたぞ」
十分ほど車を走らせ、辿り着いたのは陸也も名前は知っている有名な大型の画材店だった。
「使ってるスケッチブック、残り少なかっただろ。そろそろ新しいのがいるんじゃないのか」
「あ、そうだった」
「デッサンするのもいいが、課題もしっかりやらないと時間なくなるぞ」
最近は無心に白い紙に描いていくのが、少しずつ楽しいと感じる。けれどキャンパスとなると、まだ何を描いていいのか決めかねているのだ。
提出するまで一ヶ月と少し。
そろそろ本格的にやらないと、完璧に間に合わない。
「確かに、やばいよね。それに、来月からはもっと忙しくなりそうだし」
家族に、椿の仕事を手伝うと嘘をついたと話した時、それなら、いっそ本当に手伝えばいいと、仕事の資料整理を任された。けれど、会社関係にタッチするわけではなく、主に椿がプライベートで集めた美術関係の資料をまとめていくのだが。
家以外は、椿のマンションと、椿が勤めている会社で過ごしている。
学校以外のプライベートは、ほぼ隣に立っている男で占められているといっても過言じゃないだろう。
「だから、しっかり頑張れよ」
「もちろん。やり遂げないと、自分で自分に負けるみたいで、なんだか嫌なんだよね」
陸也にとって絵を描くのは、呼吸をするのと同じくらい当たり前で大事な事だ。自由奔放にとまではいかないが、好きな事を全力で出来る環境で、自分の力を精一杯出し切ってしまいたい。
思わず両手でガッツポーズをすれば、椿が励ますように優しく頭を撫でてくれた。
「その意気込みだけは認めてやるぞ」
「なんか引っかかる言い方なんですけど」
「そうか?」
椿の軽い口調に呆れている陸也を残し、相手は店に入っていく。陸也はその背中を見つめながら、自分もすぐに後を追った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
画材店で、スケッチブックを新調した時に自分の分と、もう一冊、陸也は椿にスケッチブックを購入した。今は全く描いていないというのは本当らしく、椿のアトリエにあったのは過去の作品のみで、画材などは一切見当たらない。
けれど、完成品と一緒に未完成なキャンパスがあるのを見つけ、本当はこの作品を完成させたかったんじゃないだろうかと、何となく感じてしまったのだ。
サインも入っていない、枠組みのデッサンだけされたもの。
椿は基本的に風景画しか描いていない。けれど、それは珍しく『誰か』を描こうとしていた。