その腕にほだされて
「自分でも持て余してるんだけどな。でも、どうしても気に入ってしまって、ここに住む為に働いているのかもしれない、そんな気分になる時もあるよ」
「居心地が良い場所なんだね」
ここが椿にとって寛げる空間なのだ。
「ゆっくり出来る場所を持っていると、心に余裕が出来るからな」
「だから仕事も上手くいってるんだね。椿さんて失敗とかなさそうだし」
「なさそうに見えて、正直、何度か失敗してるぞ。まだ致命的なミスを出していないだけで、危機は結構あったしな」
さらりと返され、それもそうかとあっさり納得する。誰だって間違いをしてしまうのはあるし、椿も例外じゃない。
椿が二人分のコーヒーを淹れ、カップを陸也に手渡す。
香ばしい匂いとあたたかい温もり、そして安らげる部屋。ちょっとした幸せを椿と共有していると考えるだけで、陸也の口元が自然と綻んでしまう。
「なんだか楽しそうだな。描くのが楽しみになってきたのか?」
絵の事は特に考えていなかったけれど、もしかしたら彼の言う通りなのかもしれないと、陸也はなんとなく思う。
「そうかも。色々スケッチしても、前よりは描けるようになってきたし」
陸也は気恥ずかしさを隠しつつ答えた。
実際、椿に弱い部分を見せた事で吹っ切れたのかもしれない。必死になっても駄目な時はある。けれど、描き続けてみてもいいんじゃないかと、陸也はしばらく開かなかったスケッチブックを手に取った。
時間がある時は手近なものからデッサンし、この間の休みは近くの公園に足を運んで、描くという事に向き合ってみた。
以前の様な衝動は生まれてこなくても、少しずつ楽しいという感覚が戻ってきている気がして、その日一日は気分が良かったのを思い出す。
「だったら、あとは必死になるだけだな。絵はもちろん、勉強も頑張らないと、いくら推薦だからって落ちるぞ。完璧に両立しろとまでは言わないが努力はしろよ」
「分かってはいるんだけどねー…。難しいんだって」
「まあ、言うだけは簡単なのは俺も承知してるんだけどな。とりあえず、絵の方は今日から協力してやれるから、やれるだけやってみろ」
飲み終わったカップを硝子テーブルに置き、椿が陸也を隣の部屋に案内する。
質感のあるドアを開けると、そこには額に入っていないキャンパスが何枚も壁に立てかけてあった。大きさはさまざまで、けれどどれも完成品らしく、近くで見ると右端にサインがちゃんと入れてあった。
しゃがみ込んでキャンパスを眺める。
右上がりの筆記体。薄くなっているその名前を陸也が指でなぞりながら読み上げる。多分、どれも同一人物が描いたのだろう、何枚かチェックしてみたがどの絵にも同じ様な独特なタッチのものがあり、サインも全て同じものだった。
どれも風景画だが、濃い色彩を重ねている為深みのある絵になっていた。陸也は見知らぬ風景に手を伸ばし、絵の具の凹凸の感触を指で味わう。少しざらりとしたキャンパスの上に、作者が体験した時間が切り取られているんだと思うと、どことなく不思議な感覚を抱く。
絵には歴史が映し出されていると言われるが、陸也自身その言葉に納得していた。
何気なくスケッチしたものは、その時間、その場所にしか存在しないもの。風景にしても、年月と共に形や色を変えていく。
「これ、全部椿さんが描いたんだ」
「まあな。描かなくなったから処分しても良かったんだけど、引っ越しついでに持ってきて結局そのまま今に至ってるわけだ」
「捨てるって、なんでだよ。こんなに良い絵なのに。ぼく好きだよ。この色の出し方とか、タッチとか。力強くて、なんだか椿さんそのままって感じだし」
色に色を重ねるのに、わざとキャンパスの上で混ぜ合わせる事によって、一つ一つの色の持ち味が生かされていた。
技法とか、多分そんな事なんて考えていないのだろう。ただやりたいから実行した、椿はそんな性格の持ち主だからと、短い付き合いながらも陸也は何となく相手を把握する。自分に正直に生きている姿が絵にも反映されていて、もう一度愛しさを込めて絵を指先で撫ぜた。
「ここにあるものは使っていいぞ。あと……」
「ねえ、椿さん」
「ん? どうした?」
陸也が椿の言葉を遮る。
提供しても良いと言ってくれた相手の意図がどうしても知りたくなり、陸也は立ち上がるとゆっくり椿の元に歩み寄った。
「何でここまで親切にしてくれるの? ぼく、最初は椿さんの事苦手だったんだよ。初めて会った時だって……」
なんとなく気後れして俯いてしまう。
それでも、ずっと気になっていたのを陸也は相手に告げる。
「確かに警戒されてたよな。でも、それは俺の態度も悪かったんだし、しょうがないだろ。それに…」
一呼吸置き、
「興味を持ったって言ったら怒るか?」
苦笑交じりの声が頭上から聞こえてくる。
思わず上を向けば、どことなく困った表情をした椿と目が合う。
「興味…って、ぼくに?」
「イブの日に誘ったのは、本当に詫びのつもりだった。苛立っていたとはいえ、いきなり感情をぶつけるのは人として失格だしな。五十嵐さん達だって、寝る時間も削って頑張ってくれているのに、まったく考慮していなかった。あの時は、仕事で頭がいっぱいになってしまって先走ってたんだ」
「椿さん……」
「だから、君の一言にはやられたな」
「一言って?」
何を言ったのか思い出せない。そんな陸也の表情を読み取ったのか、椿は微苦笑を浮かべる。
「会社の為に頑張っているのは、貴方一人だと思わないでくださいってね。俺の仕事は、商品を売る為の戦略とマネージメントがメインで、それに関する事なら優秀なデザイナーやコピーライターをスカウトする時だってある。人を雇う、使うという事が仕事として当たり前になってたんだ」
けれど、その相手にだって感情や生活がある。
仕事を優先するのは当たり前だが、強制するのはエゴだろうと突きつけられた気がしたと続けられ、陸也は思わず口をつぐむ。感情のままに発した感情の影響の強さがどこまでなのか、考えもしなかった。
不意にくしゃりと優しく前髪を掻き上げられ、そろそろと瞳を覗き込まれる。
「上手くは言えないが、感謝してるんだ。それにイブの日一緒に過ごして、もっと話してみたいと思った。もっとも、根拠も何もないんだけどな」
「…理由なんて、後からついてくるものだって、ぼくは思う」
「ああ、そうだな」
椿がどう解釈したのかは分からない。けれど。
「ぼくも、椿さんともっと会いたいって思ってたから」
たとえ、この感情の名前が明確に分からないとしても。椿と過ごす時間を大切にしたい、もっと傍にいれたらいいという、自分の気持ちに正直になろうと決めたから。
「じゃあ、そろそろ美術館に行くか。菱沢の奴も、杜君に会いたがっていたしな」
「そうだね」
椿の後について部屋から出ていく。これからしばらくこの部屋に、椿の安らげる場所に通えるという現実が、陸也の胸を熱くさせていった。
昼と夜とでは印象が違う。
以前はクリスマスというのもあり、どこか華やかだった公園も、今は散歩をする老夫婦や、犬を連れた親子連れなど、のんびりとした雰囲気がただよっていた。