その腕にほだされて
だから、落ち込んでいるのを悟られないように、陸也はしっかりと明るく笑む。
「課題もモチロン頑張るけど、もっと絵に触れてみたいんだ」
海斗は少しの間黙っていたが、やがて諦めにも似た苦笑を見せた。
「そこまで言うのだったら協力するよ。でも、夢中になって課題や学校関係を疎かにしたら駄目だよ。推薦の事もあるけど、陸也は昔から夢中になると一つの事しか目に入らなくなるんだからね」
兄らしい威厳なんてないけど、忠告するからと、自らを茶化しながらも海斗は陸也を甘やかしてくれる。
こんな風に優しい相手にまで嘘をつく自分に、ほんの僅かに嫌悪しながらも、これで少しは絵が描ける様になるんだろうかと、希望と不安が綯い交ぜになった心を、陸也はそっと宥めていった。
「それから、母さんの機嫌を損ねないためにも、前から言われてる絵画教室に通った方がいいんじゃないかな。もちろん、バイトを優先したいのは分かるけどね」
「その方が機嫌も良くなるなら、そうしてみるよ。ホント、海斗には感謝してます」
目の前で掌を合わせ拝むように感謝を示すと、仕方ないと返された。
「可愛い弟だからね。もう一度繰り返しになるけど、絶対に無理しちゃ駄目だよ。体壊したら何にもならないんだから」
「健康管理にはもちろん気をつけるよ。それに、海斗を悲しませたくないしね。だったら、言うのは早い方がいいかな。もうすぐ事務所のバイト終わるし、いっちゃんも来月早々には復活予定だって言ってたから」
椿と別れ、家についた時に従兄弟からメールが入っていた。
すでに一琉本人から事務所には連絡を入れているので、今日会社から出る時、五十嵐に寂しくなるねと言われたばかりだ。
たった二ヶ月。
それでも、陸也にとって大切な場所になっていた。だから、本当の事を告げられないのが心苦しかったけれど、いつか五十嵐にはちゃんと話そうと決めたのだ。その時は無理を承知で、もう一度あの場所で働きたいと希望を出してみよう。
膳は急げとばかりに、海斗と陸也は両親にアルバイトの事を相談した。
高校生だからというよりも、推薦が気になる母親をどうにか説得して、先方の承諾があれば良いと約束をとりつけた。両親が美術関係の仕事をしているのも、態度が軟化する要因の一つで、陸也は内心で海斗の時と同様に謝りつつ、自室に戻ると椿にメールを打つ。
あの日の帰りに教えてくれたアドレスと電話番号。相手の仕事もあるので、電話をかけたりはしなかったが、ポツポツとメールのやり取りはしている。
送信してから、しばらくして受信画面になる。
『分かった。来週の土曜日は早く帰れるから、その日からでもいいか?』
陸也に異存はない。誘われたとはいえ、椿のスケジュールに合わせる気でいたのだ。描きたいという気持ちや想いは、まだ小さいながらも再燃しかけている。そのきっかけをくれた椿に感謝しながら、陸也は椿から届いたメールに返信した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
椿のマンションは、陸也の住んでいる所から一時間弱ぐらいで着ける場所だった。
沿線が同じだったので乗り換えもなく、陸也は思っていたよりも早く待ち合わせ場所に着いてしまい、約束の時間まで駅前のコーヒーショップで待つ事にした。
改札が見えやすい位置の席に座り、ほっと一息をつく。平日は学校と事務所、休日は近所を出歩いてデッサンしたりしていたので、こうやって休みの日に遠出をするのは久しぶりだった。
(前は、結構色々出かけてたんだけどなー…)
見慣れない景色を飽きなく眺める。
今日は遅くなると家族に伝えてあるので、陸也はどことなく開放的な気分を味わいながら、ホットチョコレートに手をつけた。
椿と会うのが楽しみだなんて、以前の自分なら絶対に考えられないなと、改めてこの間の出来事を胸のうちで反芻させる。
相手の気まぐれでも誘ってくれた事が、本当はどこか嬉しかったんだと、今なら素直に思える。
仕事ではなくプライベートな部分に触れられたのも、陸也の胸をどことなく甘く疼かせた。
「隣いいか?」
「あ、すいませ…ん。て、椿さん…?」
「少し早かったかと思ったけど、君の方がもっと早かったみたいだな。メールいれてくれたらよかったのに」
スーツではなく、黒のジャケットに、一目見て質が良いと分かるダークグレーのデザインシャツ。いつも後ろに流してセットされている髪も、今日は自然におろされていた。
纏っている雰囲気ががらりと違っている。スーツの時よりも砕けた印象を抱き、陸也は思わず素直な感想を漏らしてしまう。
「なんか、若い感じがする」
「失礼だな。これでも、まだ二十八だぞ。まあ、君からしたらそれでもオジサンかもしれないけどな」
隣に座った椿は意地悪そうな笑みを向け、陸也に煙草を吸っていいかと問いかけた。陸也は走りそうになる鼓動をどうにか抑え、構わないと慌てて頷く。骨っぽい男の手に何となく目を惹かれながら、改めてあの日の約束が現実なんだと実感する。
「オジサンというより、ちょっと歳の離れたお兄さんかな。スーツの時と雰囲気が違うから、ちょっと不思議だなーって」
「まあ、そうかもな。周りは、良くも悪くも年齢重視な奴が多いから。若い奴に重要な仕事を任せられないって、商談の場さえ設けてもらえなかった時もあるんだぞ」
それでも無理やり会社に出向いて行き、きっちりと仕事を取り付けたんだと、すぐに付け足される。多少強引に、けれど引き際の見極めは慎重に。椿の手腕もかなりあるのだろうと陸也は推測する。
「そういえば菱沢の所の展示、観に行きたがってただろ。後で一緒に行くか?」
椿が指しているのは、今月開かれている雪景色の展示だ。
「菱沢さんとは親しいんだよね。そういえば、いつからの付き合い?」
メールや電話を重ねていくうちに、口調も自然と砕けたものに変化していた。もともと人見知りをしない陸也は、相手との距離を縮めるのが得意というのもあり、椿ともすぐに打ち解けたのだが、今回は相手との距離がとりにくくて、正直気持ちを持て余している状態だ。
「大学時代から。同じ学科というのもあったし、結構サバサバした性格だから付き合いやすかったんだよ」
「いい友達なんだ」
「ああ。…真面目で一途な部分もあるし、俺には勿体無いくらいの友人だ」
微かに言葉が切れる。
どこか懐かしむような瞳を一瞬垣間見せたが、それはすぐに消え、椿は飲み終わった陸也のカップを自分のトレイに乗せると出るかと促した。
大学からだと約十年弱。それだけの年月を積み重ねてきた分だけ、色々あるのかもしれない。
(なんでだろ…)
もっと相手の事を知りたい。そう強く思うのは、どうしてなのだろうか。
「おじゃましまーす」
「どうぞ」
マンションに着き、椿のプライベートに踏み込むのにどことなくくすぐったさを覚えながら、陸也は部屋の中を見渡した。
黒を基調としたテーブルやソファー、収納家具などは、デザイン性と機能性の両方を重視したものらしく、すっきり見えて無駄がなかった。キッチンとダイニングの広さや、部屋の数が一人暮らしなのに三つもあるのに驚けば、確かにと同意される。