その腕にほだされて
さらりと。自分の性癖を述べた男に内心驚きながらも、不思議と嫌悪感は湧いてこなかった。けれど、どうして初対面の人間にあっさり告白できるのだろうか。後ろめたさをまったく感じさせない態度に陸也は内心戸惑ってしまう。
「お前、唐突過ぎるぞ」
椿が口を挟み、菱沢はやれやれと肩をすくめた。見た目は繊細なイメージなのに、性格はそれなりに大胆らしい。
「まあ、余計な詮索はしないでおいてあげるよ。それに、絵が好きな子は、苛めるよりも可愛がりたいからね」
微笑まれ、どぎまぎしてしまう。
「お前が言うと洒落にならないな。まったく、そろそろ仕事に戻らなくてもいいのかよ」
「もちろん戻らなくちゃいけないよ。まだお仕事時間だし。さ、椿達もそろそろ出た方がいいよ」
閉館時間ギリギリになると、さっきまでいたカップル達の姿もほぼいなくなり、展示室には数名しか残っていなかった。館内に流れるクラシックに混じり、さっきから閉館時間を知らせるアナウンスが繰り返されている。
「来月は雪景色の特集をやるんだ。もちろん、今回と同じ様にいろんな作品があるから、よかったら来てくれないかな」
菱沢は出入り口まで見送ってくれ、陸也に美術館の案内を渡してくれた。一月のラインナップは全部で五つ。油絵がメインとなっている新鋭画家も気になったが、菱沢が教えてくれた展示は今日と同じ形式なので、そちらにより興味を惹かれる。
「楽しかったみたいだな」
「はい、来てよかったです。あの…今日は本当にありがとうございました」
最初は、相手の強引さに呆れた。
けれど、今は椿に対して感謝の気持ちしかない。好きなものに触れるというのは、こんなにも嬉しくて心が震えるんだと気づかされた。
「前に、五十嵐さんから課題が忙しいらしいと聞いたが、それも絵の関係なんだろ?」
「ええ、そうです。けど、なんだか上手く描けなくて。推薦は取れたんですが、提出する肝心の絵がまだなので、焦ってるっていうか……」
「何を描くかも決まってない?」
椿には高校生だというのもバレているのだ。今更隠す事なんてない。
「正直そうです。動物や景色とか、とにかく目に付くものは全部デッサンしてみたけど、なんだか全部違う気がして」
描いても描いても、何も心に響かない。
だから、鉛筆やコンテを走らせたとしても、何度も消してしまう。そこにあるモノを、ただ描き止める行為は虚しいだけなのに気だけが逸ってしまい、陸也は胸の中に燻ったままの感情をどう表現していいのか解らない状態だった。
「しかも時間がない。だから、焦るってわけだ」
こくりと力なく頷く。
刻々と時間だけが無駄に過ぎているみたいで、耐えられない。
けれど、どうしたら……。
「だったら、描く場所を変えてみたらどうかな。環境が変われば、気持ちも切り替わるだろうし」
「え…?」
「バイトが終わってからでいい。俺の元アトリエで描いてみないか?」
突然の申し出に戸惑いながら、陸也は椿をまじまじと眺めた。どうしてこんなにも親切にしてくれるのだろうか。電話で失礼な態度を取っていたのは自覚しているので、優しくしてくれる椿の意図が読めなかった。
(あれ…でも、アトリエって……?)
もしかしたら。
「椿さんも絵を描くんですか?」
「趣味で描いてたんだ。高校から大学まで。一応、美大出身だからな。まあ、社会人になって、描くのからは遠ざかっているけど」
代わりにビジネスとして携わるのが多くなったと続けられた。菱沢と関係が続いているのも、仕事関係で関わってる事があるからだと教えられる。
陸也は、それでも釈然としなかった。走り出した車の中に短い沈黙が落ち、椿が微苦笑を浮かべる。
「無理にとは言わない。ただ、そうだな」
一度言葉を切り、噛み締めるように告げられた。
「君の絵が見たくなった。ただ、それだけだ」
「ぼくの…絵を?」
「そう。今日熱心に絵を鑑賞していただろ。それに、さっき菱沢に貰っていたパンフレットを見ている時も楽しそうだった。好きな絵が描けないのは、今はプレッシャーに負けているだけだと勝手に解釈させてもらったが、君ならそれも克服出来ると信じてるよ」
いじわるく微笑まれたけれど、しっかりと断言され、胸の中が熱くなる。
誰かに、この胸にある不安を聞いて欲しかった。そして受け止めて欲しかった。
けれど、それは誰でも良かったんじゃなくて。
(なんで……この人なんだろ)
電話では喧嘩しかしなくて、初対面では陸也が失礼な態度をとったのにも関わらず、椿は陸也に手を差し伸べてくれる。たとえそれが大人の気まぐれだったとしても、その手を取ってしまうんだろうという予感と確信が、陸也の胸の中に生まれていく。
「まだ…分からないけど、ちょっとでもあがいてみた方がいいんだよね」
自分に言い聞かせるように呟き、陸也は椿の申し出を受ける事にした。
けれど、どうやって両親に説明をしたらいいのか分からなくて悩んだ挙句、最終的に頼ってしまった先は、優しい兄だった。
相談があると話せば、海斗は二人分のホットココアをいれて自室に呼んでくれた。
「その人の事、本当に信用出来るんだよね?」
陸也と類似した顔が心配そうな表情をみせる。
念を押されるのも仕方ない。実際に椿と接したのは二ヶ月ぐらいしかないのだ。しかも、ちゃんと会って話したのはイブの日の一度きり。
それなのに、その相手の仕事先に行くだなんて、海斗には理解の範疇外でしかないのだろう。
「でも、いきなり仕事の手伝いなんて。陸也はまだ高校生なんだよ」
「あ、それは向こうが大学生だって思ってるから。ほら、いっちゃんの代わりに今デザイン会社でバイトしてるだろ。そこで大学生で通ってるからさ」
今回バイトする原因になった従兄弟──いっちゃんこと、西条一琉の名前を出され、海斗はすぐに納得したようだった。今回のバイトは、従兄弟が骨を折る怪我をして入院してしまったので、その代打で入っていた。
リハビリを含め、二ヶ月強。
一琉の友人達は、それぞれバイトや課題に追われており、困り果てた従兄弟が最終的に頼った先が双子の自分達だった。
けれど、人見知りのしがちな兄には多分無理だろうと判断した陸也は、気分転換をしたいのもあり率先してその頼み事を受けた。
高校生でバイトはさすがにまずいだろうと、一琉から五十嵐には、大学の友人と紹介されている。
「でも、椿さんはデザイン会社の人じゃないんだよね。なのに、何で陸也に会社でバイトして欲しいなんて……」
「誘ってくれたのって社交辞令みたいなものなんだけどさ。そこをぼくが、無理やり押し切ったんだ。椿さんの会社って美術関係も取り扱ってて、それの資料集めとか勉強になるかなーって」
あくまでも、こちらから強引に。
我ながら感心するくらいの嘘に、陸也は少しだけ胸を痛ませた。
椿が指摘したように、プレッシャーに押し潰されている姿なんて家族に知られたくない。それに、海斗は優しいから陸也が苦しんでいる姿をみたら、絶対に悲しむだろう。
痛みを分かち合えないのは仕方がないと、趣味や進路が違うので陸也も海斗も理解している。それでも、割り切れない感情の部分で、どこかお互い繋がっているのかもしれない。