その腕にほだされて
けれど、足取りはあまり軽くなく、これから家に帰るんだと考えるだけで憂鬱が重くなる一方で、会社から駅までの間をとぼとぼと歩く。
別に家族が嫌いなわけじゃない。
「なんとなく…なんだよね」
多分、自分の進路が決まった頃から、この気持ちは芽生えていたのだろう。
必死の思いで推薦をもぎ取った、陸也がずっと進学希望していた美術系の大学。試験の代わりに出された課題の締め切りが二月下旬に迫っていたけれど、まだ真っ白なまま何も描かれていない。
描こうといくら静止物をデッサンしても、風景をスケッチしても。何も心に響いてこなくて、それが怖くなったのもあり、逃げるためにこのバイトを引き受けた。
絵の事で、頭がいっぱいになるのに嫌気がさしていたのに、描きたい衝動に駆られている自分に苦笑しつつ、けれど思い通りに出来ない現実に打ちのめされてしまう。
「ただいまー。お腹すいたー」
つらつら悩んでいるうちに、あっさりと家につく。
「おかえり。今日は母さんが昼からチキンを焼いて腕を振るってるよ。仕事がひと段落したお祝いでもあるみたいだけどね」
リビングから出迎えてくれたのは、自分と酷似した兄の海斗だった。
容姿は一見そっくりでも性格は正反対に近く、活発できっぱりした陸也に対し、海斗は大人しく落ち着いた雰囲気をまとっている。
「ああ、そういえば商談が落ち着きそうとか、こないだ聞いた気がする」
一旦自分の部屋に戻り鞄とコートを置いてリビングに戻る。香ばしい匂いにつられるように、キッチンへ顔を出すと母親から手伝ってと声が掛けられた。家族の団欒に和む気持ちの中にあるほんの僅かな居心地の悪さが、陸也の胸に小さな波を立てる。
応援してくれる家族の期待。頑張れと言われるたびに募るプレッシャーを、どうやったら飼い馴らすことが出来るのだろうか。
「ケーキは陸也の好きなショートケーキだよ」
海斗がケーキの箱を冷蔵庫から取り出しながら、陸也に話しかけてくる。
「それって、いつの話だよ」
「小学生くらいかな。いっつも先に苺食べて、僕の分も欲しいって泣いてたなー」
くすくすと笑う兄に、陸也は苦笑しながらも思い出を分かち合う。きっと海斗は薄々気づいているのかもしれない。その証拠に、海斗だけは大学の話題を出そうとはしなく、普段の日常であった何気ない出来事を報告してくるのが多かった。
今年もあと少しで終わる。
じりじりと焦る気持ちも今日だけは忘れようと決め、陸也はクリスマス料理をテーブルに運んでいった。
「はい、五十嵐デザイン事務所ですが」
用件を聞こうとした陸也の耳に届いてきたのは、聞き慣れたバリトンだった。
『昨日はどうも。ユニックスの椿です』
「…ただいま、五十嵐は席を外してますが」
一瞬、咽喉の奥でくっと楽しげに笑われ、思わず受話器を握る手に力をこめてしまう。昨日の様な、意地悪げな笑みでも浮かべているのだろうかと、考えただけで切りたくなってしまうが、仕事の電話だと無碍にも出来ない。
陸也は事務的に返し、さっさと終らせようと決めた。
『知ってる。さっき会ってたからな』
「だったら…」
『今日は杜君に用事があったんだ。昨日、あれから君の高校に勤めている友人に聞いてみたら、杜陸也という生徒がいるって確認できたんでね。本当に未成年だったんだな』
「え、うそ。ちょ…あんたの友達って誰だよ。もしかして、笹木とか。それとも水谷じゃ……」
思わず敬語が抜けてしまう。
椿と同じくらいの教師は限られていた。さらに陸也を認識しているとなれば、ぐっと相手は絞られてくる。
慌てている陸也の耳に、今度ははっきりとした笑い声が届く。
(……もしかして)
うっかり滑らせてしまったけれど、今更撤回できない所まできているらしく、一通り笑った椿から決定打を撃たれる。
『普通、分かるわけないだろ。高校生だとはなんとなく思ってたけど、まさか本当にそうだったなんてな。そんな所でバイトしていて、勉強はしなくていいのか?』
「椿さんには、関係ないです」
『まあな。でも、五十嵐さんが知ったらすぐにやめさせられるぞ。あの人、嘘は嫌いだから。未成年だって知ったら、どうするんだろうな』
遠まわしに告げ口をしようかと匂わせる言い様に、陸也はカチンときてしまう。椿に、どうしてそこまで言われなくてはいけないのだろうか。
「だったら伝えればいいですよ。それに、あと一週間もしたらバイトじゃなくなるし。あ、そうだ。そうなったら椿さんと話すものこれが最後かもしれないですね」
清々すると暗に込めた皮肉も通用しないらしく、あっさりと残念だと返答される。
気がつけば素に近い口調になり、陸也は慌てて切り替えた。この男と話していると、どうしても取り繕うことを忘れてしまう。
今度こそ切ってやるとフックに指を掛けた時、向こうが改めて残念だと繰り返した。さっきよりも本気が混じっている声色に、不覚にもどきりとしてしまう。
『だったら、最後にもう一度会わないか。…そうだな、今日杜君が終わるくらいに下で待ってるから』
「え? ちょ、あんた何言って…」
切ろうと思っていたのに、先に向こうが会話を終了させてしまったので、仕方なく受話器を元に戻し陸也は頭の片隅にさっきの約束をメモしておいた。
(あっさりと待ってるって、仕事どうするんだよ)
アルバイトである陸也の定時は五時となっている。
けれど、そんな早い時間に会社の仕事が片付くとは思えない。
五十嵐曰く、椿の多忙さは半端じゃないと以前聞かされた事があるだけに、さっきの台詞は嘘なんじゃないだろうかと疑いたくなった。
定時の時間が近づくにつれ、ついつい腕時計に視線を走らせてしまい、それを見た社員に恋人と約束してるのかと、からかい半分で突っ込みをいれられる始末だった。
「じゃあ、お先に失礼します」
ビルの中は暑いほどに暖房が効いていたが、一歩ビルの外に出るとひやりとした北風が頬を撫でていく。陸也は立ち止まって暗くなり始めた空を見上げた。今日は、昼間と夜の気温差が激しかったなと朝の予報を思い出しながら歩き出そうとした時、ぽんと軽く肩を叩かれた。
「おいコラ。人の約束すっぽかしてどこに行くんだ?」
慌てて振り返れば、呆れた表情を浮かべた椿と目が合う。
「……うそ」
「嘘ついてどうするんだ。そもそも、俺が言い出したんだから、待っているのは当たり前だろうが」
「でも、仕事あるんじゃ…」
「もちろん。だから、一旦社に戻るんだ」
腕を掴まれ、半ば引きずられる格好で道路脇に止めてあったネイビーカラーの車に乗せられた。これじゃ一歩間違えば人攫いじゃないだろうかと、文句の一つでも言ってやろうかと口を開きかけたが、シートベルト着用を促され反射的に従ってしまう。
この男は噛み付いた所で痛くもないのだろうと自分に言い聞かせ、陸也は諦めた気分で車のシートに身を沈ませた。
短い沈黙に耐え切れず、疑問に思っていた事を口にする。
「なんで、いきなり……」
「いきなりじゃないと捕まえられないだろ。ま、でも不信感バリバリにさせたかもしれないって思った時は、さすがにまずいなと反省したんだぞ」
むしろ、不信感というより疑問の方が陸也の心を占めていた。