その腕にほだされて
その腕にほだされて
電話での不遜な態度を微塵も感じさせないぐらいの柔らかい笑みと口調。けれど、どこか豪胆さが垣間見える話術だと杜陸也は勝手に印象づける。
(あれが、ユニックスの…)
いつも陸也と電話越しで口げんかに近い会話をしている相手、椿瑛一だとは、到底思えなかった。
じっと見つめていた陸也の視線に気づいたのか、椿がふとこちらを向く。目が合った瞬間に思わず惹かれたのは、その漆黒の色だった。
奥二重の奥にある意思の強さを感じさせる瞳。けれど、すぐに全部のパーツがしっかり整っているだと気づかされ、陸也はスーツを着こなした男を憮然と見つめ返す。
しっかりとした眉と鼻梁、それに少し肉厚な唇が一瞬無骨な印象を与えるが、そこに柔い笑みを乗せるだけで甘いマスクに変化するのも計算のうちなのだろうか。
少し長めの前髪を後ろに流し纏め額を出す事で、表情の変化が分かり易くなっている。
「じゃあ、その方向でお願いします」
来客用の革張りのソファーから立ち上がった椿が、陸也に向けて今度ははっきり意地悪そうに微笑んだ。上司である五十嵐が机に乗せていた資料を忙しなく片付けているのをいい事に、陸也は思いっきり相手を睨みつける。
「杜君。椿さんを下まで送ってあげて」
「あ、はい。分かりました」
上司の声に慌ててドアに向かい、二人揃ってエレベーターに乗る。
椿から営業用の微笑みがすっかり消え、代わりに陸也に見せているのはどこか探るような視線だった。
「…あの、何か」
「いや別に。ただ、電話口できゃんきゃん吠えていたのが、こんなチワワみたいな子だったとは。ここは高校生でも雇ってくれるんだな」
「これでも大学生……ですけど」
辛うじて敬語を使う。
「そうか」
「よく童顔だから間違えられるんですよね」
「それは悪かったな」
取り繕うような補足に、相手はあっさりと返してくる。
実際、納得してるかどうかは陸也には判断がつかなかったが、とりあえず逃げ切れたのならそれで構わない。
それ以上は突っ込んだ会話もなく、なんとか椿を別れる事が出来た。
廊下にある窓から赤や緑の色に染まった街並みをほんの数瞬眺めた後、陸也はほっと一息つく。同時に、窓に映った自分の姿に再度溜息を落とした。
会ったばかりの椿にすぐばれてしまったが、実際大学生というのにはいささか無理があるのは自覚している。
身長は高校二年でストップしてしまったらしく、百六十ちょっとしかない。加えて、大きめの黒い瞳と頬に残るほんの僅かな幼さが否が応でも未成年なんだと主張していた。
「本当に誤魔化せてるのかなぁ…」
独り言は誰に聞かれるでもなく掻き消え、陸也はあと三十分で終わりだと腕時計で確認しながら歩き出した。
「戻りました」
ドアを開けると、パーテーションで区切られた一つから、さっきまで椿と話していた五十嵐が顔を見せる。のんびりとした温厚な雰囲気のうえに、少し長めに伸びた髪と黒ぶち眼鏡で一見年齢不詳に見える相手だが、三十代前半でデザイン事務所の大黒柱でもある彼は、淹れたばかりのコーヒーを陸也に差し出した。
「ありがとう、杜君。今日は少し早いけど、これ飲んだら帰っていいからね。確か課題で忙しいとかいってたでしょ」
「あ、はい。でも急ぐものじゃないので、もう少し仕事しても大丈夫ですよ」
「それはありがたい申し出なんだけど、今日ぐらいは早めに帰ってゆっくりしてもいいんじゃないかなーってね。もちろん、その分明日は残業してもらうけど」
「そっか、クリスマスイブでしたっけ」
ついさっきイルミネーションを見ていたけれど、特に意識していなかったらしい。
この事務所で働いているのは五人。デザイン会社にしては小規模なほうだろう。けれど、業界で敏腕と名が通っている五十嵐率いるチームの仕事量は半端じゃない。
陸也が主に担当しているのは、電話受付と来客への対応だった。
一人一人が抱えているクライアントも多く、打ち合わせで外出する機会が多いので、主な仕事に気がつけば留守番も追加されていた。
「五十嵐さんは予定あるんですか? もしかして恋人とか」
「いたらいいんだけどねぇ。今日は得意先のクリスマスパーティーに招かれてるんだよ。顔出しておいた方が無難でしょ。いわゆる大人のお付き合いってわけ」
デザイナーはデザインだけをしていればいいわけじゃない。いつどんな所で感性を磨くものに出会うか分からないからと、飲み終わったカップを陸也から受け取った後、五十嵐はさっき陸也がした質問を返してきた。
「杜君こそ、恋人いそうだけどね。年上のお姉さまに可愛がられそうな感じだし。明るくて元気があって。見ているこっちまで楽しくなるよ」
「いたらいいんですけどねー。今年は寂しくキャンパスと過ごしますよ。バイトもあとちょっとだし頑張りますね」
もともと代理として一ヶ月入っていただけで、年が明ければここに来ることもない。
(もう、あの人と話す機会もなくなるんだろうな)
脳裏に、さっき会った椿の姿が浮かぶ。最初の電話でのやり取りを思い出していると、陸也の思いを読み取ったのように、五十嵐が椿の名前を口にして小さく笑った。
「だったら、あのやり取りも聞けなくなるんだね。電話で激しくやりあってた時は驚いたよ」
「…すいません、クライアントに」
「確かに会社的には大問題だけど、僕個人としては面白かったよ」
あっさりと返す五十嵐が楽しそうに話すほど、居た堪れなくなってしまう。
まだバイトに入ってすぐの頃、電話を受けた陸也に対し、いきなり責任者を出せと名乗りもしないで開口一番に告げた椿に、陸也は不在だと伝えた。けれど向こうは苛立っているのか、居留守だと一方的に決め付けるので、だったら今から会社に来たらいいだろうと、口火を切ったのが始まりだった。
それからは、椿から連絡が入る度に妙に意識するようになって、結局今に至っている。
「帰ってくるなり真っ青な顔で謝られた時は、何事かと驚いたしね」
「……」
「普通の会社だったら即刻解雇だろうけど、あいにくここで一番エライ人は僕だし、まぁ相手があの椿さんだったから特別許したんだけど」
五十嵐の中で、椿に対する評価は何故か高い。自分より年下の相手に無理難題の注文をつけられた今も、忠実にそれを守ろうとしていた。
陸也は空になったカップを両手で包み俯く。
「前にも言ったけど、責めてるわけじゃないからね。ただ、どっちも似た性格をしてるんだって妙に納得したんだよ。椿さんも君も、自分が間違っていないと思ったら譲らないっていうか、頑固っていうか」
また思い出したのか、今度は声を上げて笑い出す上司に、今度は気恥ずかしくなってしまう。自分でもこの性格のせいで散々人とぶつかってきた記憶があるけれど、それでも直そうとは微塵も考えないあたりが、少し問題なのだろうか。
「とにかく、僕は杜君の性格好きだって事。さてと、喋ってるうちに結局定時になっちゃったね。これは片付けておくから、課題頑張ってね」
五十嵐は陸也からカップを受け取り、自分のデスクへと戻っていった。
陸也は、帰り支度を済ますと事務所を出る。