その腕にほだされて
陸也の想いは、菱沢とのやり取りですでに知られている。けれど、きちんと自分から告白したくて口を開こうとした時、椿の手が陸也の頬に添えられた。触れられる場所から熱が灯っていく気がして、陸也の頬が赤く染まっていく。心持ち顔をあげると、真摯な眼差しが陸也に注がれていた。
「……もう、誰も好きになれないと思っていたんだけどな」
ゆっくりと椿の顔が近づいてくる。
思わずまぶたを閉じれば、唇に少しかさついた感触とあたたかな温もりが降りてきて。
キスされているんだと認識したのは、二度目の口づけの間で、陸也は与えられるものを素直に享受していった。
絵はいつの間にかイーゼルに戻され、椿は両腕で陸也を掬う様に抱きしめていた。スーツから煙草とグリーンノートの混じった匂いがして、陸也はすりっとその身を椿にすり寄せる。
好きな気持ちが心の中に降り積もり、溢れ出してくる。それを止める気はなく、陸也は椿の広い背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめ返す。
「椿さんが好き。……ほんとに、ほんとに大好きだよ」
「ああ、俺もだ」
この人が、陸也に自分らしく過ごせる居場所を与えてくれた。もしずっと一人で頑張っていたら、周りから与えられるプレッシャーで潰れていたかもしれない。
陸也の絵が見たい。ただその想いだけで、椿は全面的に協力してくれた。それが陸也の心をどんなに軽くしたのか、椿には想像も出来ないだろう。無言の期待ではなく、陸也の中にある可能性の芽を尊重して育ててくれた椿に、陸也は改めて感謝する。
「……そういえば、最初に気に入ったのが、その性格だったな」
電話でのやり取りを持ち出し、椿が小さく笑う。
「何に対しても真っ直ぐで、自分の気持ちに嘘がつけない君に興味を持ったんだ」
それから、会って実際に話しているうちに心にある弱い部分に気づいて、目が離せなくなったんだと、抱きしめる腕に僅かに力が込められた。
恋愛に冷静な理由付けなんて無理なのかもしれない。気づいたら堕ちていた。
理性と本能。
そのどちらも恋をするのには必要で、自分の気持ちに翻弄されながら、その中で相手を想う気持ちを育てていくのだろう。
「ん…っ」
唇から頬に。頬から首筋に。
椿の唇が、陸也の肌に熱を灯していく。
性急に求められるのが嬉しかった。
……──もっと欲しい。
何も知らないから、全部椿に教えてもらいたかった。キスも、熱も、全部この男から与えられたい。
これから時間をかけて、椿の存在をもっと体に刻みこんでいけたらいいと、陸也は拙い仕草で椿にキスを求めていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
桜は散るのが早い。数週間前までは木々を綺麗なピンク色に染めていたのに、今ではすっかり新緑の芽が顔を出していた。
寒い季節を越えれば、その先には暖かい季節が待っている。多分それは、人の人生にも例えられるのかもしれない。
「まだ、決まっていませんように」
この時期は、学生アルバイトの補充を募集している会社や店が目立つ。
就職や進学などで、仕事をやめる学生が多いからだ。
五十嵐デザイン事務所もちょうどその時期だったのか、大学で募集をかけているのを知った陸也は、次の日にさっそく面接を受けようと電車に飛び乗った。
事務所のアルバイト募集人数はたった一人。
半ば諦めつつも望みをかけてしまう。
「杜君じゃない。久しぶりだけど、どうしたの?」
社員に気さくに話しかけられ、どう切り出そうかと少しだけ戸惑った。
「あの、今日は…」
「やあ、いらっしゃい」
パーテーションで区切られたブースの、一番入り口に近い所から五十嵐に声を掛けられ、相変わらずのんびりとした口調に陸也は懐かしさを覚えた。
「こんにちは。ご無沙汰してます。……あの、まだアルバイトの募集していますか?」
それとも、もう締め切ったのだろうか。だとしたら、結構ショックかもしれない。
「さっきまでしていたんだけど、どうやら決まりそうかな」
「そう…ですか」
落胆する陸也とは反対に、五十嵐は相変わらずにこにこと微笑んでいて、表情からは何も読み取れなかった。
決まったのなら陸也の採用はなくなる。未練たっぷりでも諦めるしかない。
じゃあ…いいですと言いかけた陸也の目の前に、五十嵐がすっと手を差し出す。
「だから、履歴書出してね。明日から、さっそく来て貰う事になるけど、それでも構わないかな」
「え…、あの……」
「経験者は優遇されるし、それに今度は正式に君を雇える」
「それって……」
「西条君から、ちゃんと聞いていたよ。そうじゃないと、あんな規則正しい時間帯に来て貰うわけないよ」
五十嵐は、陸也が高校生だったというのを知っていた。
それでも雇ってくれた事に、陸也は改めて感謝する。
「それに、この僕が社長なんだから、忙しいんだよこの事務所」
自分の能力に自惚れているわけじゃなく、五十嵐は本当にデザインセンスと営業力がある。
ここで働く事で、陸也はもっと変われる気がした。
「ありがとうございますっ」
「これからは、手伝いながら色々技術を盗んでいったらいいよ。この世界は好奇心と探求心、あと向上心が試される場でもあるからね」
アドバイスを受け、陸也は頷いた。
「あと、君を雇う事で楽しみが増えるから、個人的に大歓迎なんだけど。ほんと、二人の言い合いは微笑ましいよ。ねえ…」
椿と、五十嵐が応接ブースに声を投げかける。
「まったく。俺達を娯楽趣味の対象にしないで欲しいですね。それより、明後日までにパッケージのコンペ作っておいて下さい。今回競い合う事務所は、五十嵐さんの所をライバル視して、かなり意気込んでるんですから」
椿は資料を鞄に片付けると、陸也に向かって意味ありげに微笑んだ。
その笑みの理由が、昨日椿のマンションに泊まった事だとすぐに気づき、照れくさくなって思わず目をそらしてしまう。
「じゃあ、陸也は明日からで。今日はこのまま連れて帰りますので」
「え? ちょ、ちょっと瑛一さん?」
肩に手が回され、そのまま椿の胸に抱きこまれる。一瞬何が起こったのか理解できなかったけれど、自分が椿の腕の中にいるんだと認識した途端、カッと頬に熱が集まっていく。
五十嵐の前なのに。
椿の体から離れようと身をよじったけれど、椿はそれを許さず、肩に置いた手に力が込められた。
「はいはい。構わないよ。それじゃ、明日から宜しくね」
五十嵐は驚きもせず、ただ呆れた顔を見せただけで、特に自分達の関係を問いただそうとはしなかった。
帰り際に陸也にこっそりと「独占欲の強い恋人を持つと大変だね」と耳打ちしてきたが、その口調はどこか嬉しそうな響きで。
陸也は少し赤くなりながらも、そうでもないと返した。
それぐらい求められるのが嬉しいのだから、自分達はこの関係でちょうどいい。
五十嵐に見送られ、陸也は椿と二人揃って会社を後にする。
「この後どうするんだ?」
まだ仕事が残っている椿と違い、陸也は特にこれからの予定が決まっていなかった。
「そうだね。今日は菱沢さんのところに顔を出してみようかな。モデルの返事も聞きたいし」