その腕にほだされて
「あの日…事故があった数日前に姉さんとあいつが喧嘩したのは前に話したよね。……でも、それが事故の原因じゃないんだ」
「原因じゃないって……」
「確かに、喧嘩したのは事実だし、あの時……椿のヤケ酒につきあってやった。嫌な事は全部忘れたいからって、記憶がなくなる程に飲ませた後……僕は椿を誘ったんだ」
椿には姉がいる。けれど、姉よりもずっと前から自分の方が椿を好きだったのだ、と。
「僕が優しく介抱してあげたら、弱ってたあいつは素直に縋って、ちゃんと僕を抱いてくれたよ。ま、前後不覚になるぐらい酔わせなかったら、男とセックスするなんて気を起こさないだろうしね」
「……菱沢さん」
「どうしても欲しかった。だから、あの日わざと姉に見せつけてやったんだ……。今でも、あの時の姉さんの顔は忘れられないな」
執着という名の愛情は多分、人を簡単に狂わせる。けれど、陸也は嫌悪感を抱かなかった。それに、陸也には菱沢だけが悪いとは思えない。
ただ、それが最悪な結果を齎してしまったのは、変えようのない現実として胸に今も残されているのだろう。
姉を一時の感情で傷つけた報い。それが腕にある痕なのか、無意識にその場所を菱沢が掌で覆う。
「そのショックでお姉さんが事故にあったんだって、そう菱沢さんは思ってるんですね」
「そうだよ。それから、僕達は普通の友人に戻ったし。……違う、やっぱり前みたいにはいかなかったな」
あれから数年、椿と菱沢は恵理子の事故に触れない様にして生きてきた。
そして、恋愛にしても。
「僕も椿も、本気で誰も好きになろうとしなかったんだ。…だからどこか安心していたのに」
陸也に出会った事で、椿の気持ちが動き出してしまったんだと、菱沢は諦めたように微笑む。
いつまでも引きずってはいられない。いつかは椿も新しい恋に出会う。
「だけど、それがどうして君みたいな男の子なんだろうって、考えるだけで嫉妬で狂いそうだった。男は駄目だったんじゃなかったのかって、何度もあいつに問いかけそうになったしね」
「……どうして、しなかったんですか。それに本気で好きなら、性別だって、なんだって……」
「関係ないって? そんなのただのエゴだよ。告白される相手の気持ち考えたら、そんな事……」
「エゴだって別にいいじゃないですかっ」
陸也は思わず声を荒げてしまう。
それに対し、菱沢の目が驚きで僅かに開き、やがて弱々しく口角が上げられた。
「…最初から逃げなかったら良かったんだ。椿さんに自分の気持ちを伝えていたら、きっと今の関係は変わっていたかもしれないのに」
「親友の立場を失うとしても?」
陸也はコクリと頷く。
怖くて、足が竦みそうになっても。たとえ相手を永遠に失ったとしても、陸也は自分の気持ちに正直になりたい。
「君は…強いんだね」
「違います。強いんじゃなくて、ただ馬鹿なんです。椿さんが好きだから、僕はあの人にこの気持ちを知っていて欲しい」
ただ、杜陸也という存在を覚えていて欲しい。
それこそ、エゴなんだろうと陸也は胸の内でそっと苦笑した。恋は綺麗な気持ちだけで出来ているわけじゃない。嫉妬だって立派な恋愛の一部だ。
だから、菱沢は今も椿を想っている。自身の心と、どう折り合いを付けていくかは、菱沢が決める事なので陸也が口を挟む権利はない。
自分の気持ちには、自らの手で終止符を打たなければ。
「そうだね、確かに馬鹿かも。でも、そんな君だから、惹かれたんだと思うよ。……だよね、椿」
「ああ。そうかもしれないな」
耳に届いたのは、ずっと聞きたかった相手のもので。穏やかな声色に、陸也の胸が甘く疼いた。
「椿…さん」
いつから聞いていたのだろうか。告白すると意気込んできたのに、不意打ちを食らった気がして微かに声が震えてしまった。会いたくてたまらなかった相手が、陸也の傍に近づいてくる。
「ドアを開けておいたのが失敗だったね。気づいたらこっちの様子伺っててさ。…さすがに僕も驚いたよ」
会話を聞かれた事に関して驚いていないらしい菱沢は、呆れ半分苦笑半分の声を椿に投げかけた。
「入りづらい雰囲気だったんだから、しょうがないだろ」
「どうだか。…で、どこから聞いてたのかな」
「そうだな。恵理子の事故が…ってあたりか」
菱沢と椿の視線が絡む。淡々とした二人の口調からは感情が読み取れなく、陸也はただ黙って成り行きを見守った。
微かな沈黙が流れ、やがて先に菱沢が椿に切り出す。
「……ねえ、もし僕が告白していたら、椿は受け入れてくれた? 教えて欲しいんだ」
もし、二人が恋人として付き合う様になっていたら、三人の未来は変わっていたのだろうか。いつもは飄々としている菱沢が、今にも脆く崩れそうに瞳を揺らすのを眺めながら、陸也はぎゅっと掌を握り締める。
「大学の時、まだ恵理子と付き合う前ならな。……俺は一人しか大事に出来ないんだ」
「なんだ、悩んで損してた。いや……違うか。ただ僕が逃げてただけなんだ。あんな風にずるい方法を使っても、心なんて手に入らないのに」
「だったら、俺も同じだな。家族や会社の重圧に押し潰されそうになっていた時期に、あいつの手に縋って逃げたんだ。あの時は、本気で恋をしていたつもりだった。……──俺も、恵理子もな」
悔やんでも悔やみきれない。過去の想いを噛み締めながら椿が話す。
「恋愛なんて男でも女でも臆病になるし、悩んだりする。菱沢がずっと気にしている性別も、俺ともっと深く向き合っていたら、きっと考え方が変わっていたかもしれないな」
「そうだね。椿なら、真剣に考えてくれるだろうし。ちゃんと答えを出してたと思うよ」
菱沢が柔らかい笑みを見せる。
あの日美術館で出会った微笑みと同じで、それは春の暖かい陽だまりにも似ていた。
「陸也君には、嫌な思いさせてごめんね。…でも、好きだって言った時は本気だったんだよ。僕とは違う、君の純粋な真っ直ぐさが眩しくて、すごく惹かれたんだ」
「菱沢さん……」
「さて、そろそろ帰って仕事の企画練らないと。そうそうあの展示なんだけど、二月がバレンタインをモチーフにした愛なんだ。また、椿と二人で見に来てくれると嬉しいな」
またねと残し、菱沢はひらひらと手を振って部屋から出ていった。
静寂を取り戻した空間に二人。どちらともなく、自然と見つめ合う。
気恥ずかしさも多少あったけれど、陸也はしっかりと椿の眼差しを受け止めた。今目の前にいるのは、自分が一番大事に想っている相手で。
出来る事ならずっと傍にいたい存在になっている。
「今更だけど…よかったら、貰ってください」
陸也はイーゼルに立てかけてあった絵をそろそろと椿に手渡す。
衝動に突き動かされて描いた絵だ。自分に向けられる表情に込められたものが何なのか知りたくて、ずっと椿を追い続けていくうちに気持ちがどんどん傾いていた。
自分に正直に。けれど、その真っ直ぐな性格故に傷ついた過去を持つ男。
「君の目に、俺はこんな風に映っていたんだな」
椿の眦が柔らかく溶ける。
「あの、椿さん……」