Father Never Say...
闘う為には準備が必要じゃん/吉田
雨宮惣一は私立檜山学園に勤務する英語教師である。2−Aを担任として受け持ち、学生時代オーケストラに所属しトランペット奏者であった経験から、吹奏楽部の顧問も引き受けている。
年は二十九歳、やや痩せ型で、眼鏡の奥の理知的な瞳が女生徒の憧れ──なのだが、当人はそれに気づいていない。
彼には最近、気がかりなことがある。
線路沿い、普通電車しか停まらない最寄駅。一番近くのコンビニまで徒歩10分。商店街までは30分は歩かなければならない。そんなあまり立地条件がいいとは言い難い場所に、檜山学園に勤務する教師用の寮はある。
しかし車があればそれほど不便ではないし、駐車場はタダだし、家賃も一般のマンションなどと比べればかなり安い。さしあたって雨宮に不満はなかった。
ない筈だった。
「あのさあ、しばらく匿ってよ」
彼女──吉田エリがおしかけてくるまでは。
「どういうことだ」
「今うちに親父が帰ってんの。だからアイツが帰るまで一週間泊めて」
雨宮の意向を聞くつもりはないらしく、吉田は靴を脱ぎ散らかしてズカズカと部屋に上がってきた。
「きちんと靴を揃えろ」
雨宮は溜息をつきながらひっくり返った吉田のローファーを拾い上げ、揃え置いた。
「それに泊まっていいとは言っていないだろう」
冗談ではなかった。この部屋は一人で住むには快適だが、二人で過ごすには
「うわっ、狭っ!」
そう、狭いのだ。
「とにかく帰れ。ここに生徒を泊まらせるのは色々と問題がある」
「無理。時間考えてよ。もう電車ないし、女生徒をこんな夜に一人歩きさせるつもり?」
「では、車で家まで送る」
「勘弁。そんなことしたらセンセーに部屋に無理矢理連れ込まれて悪戯されちゃったって喚いてやる」
「……」
雨宮は車のキーを掴んだ左手をすぐに下ろした。学生時代、痴漢に間違われ、裁判で争うために財産を使い果たした教授がいたのを思い出したのだ。
「交渉成立だね」
吉田は無邪気に笑った。
「……一週間だけだ。誰にも知られないように注意を払え」
「ラジャー」
吉田エリは入学と同時に吹奏楽部のトランペットファーストにおさまった、期待のルーキーだ。父親は国際的に有名なトランペット奏者で、常に世界中を飛び回っている。吉田自身、上級生が皆舌を巻く程の腕前だ。
しかしその生意気を絵に描いたような態度は一年前の春日以上で、女版春日だと言われた時期もあった。特に女子部員の間での評判がよろしくなく、嫌がらせを受けたこともあるという。
しかし入部から二ヶ月経った今では、その生意気ぶりも半ば容認されつつあった。というのも、吉田はおとなしく虐められるような性質ではなく、睨みをきかせた上級生をことごとく返り討ちにしたからだ。
雨宮はその場にいたわけでもないし詳しい話を聞いたわけでもないので、彼女が一体どんな立ち回りをしたのかはわからない。だが何となくは予想がついた。吉田の圧倒的な演奏技術の前には、誰もが黙り込まざるを得ないのではないかと。そして彼女自身にとって、周りの雑音など取るに足らないことなのだろうと。
ほかならぬ雨宮がそうだった。現役時代、彼は春日や吉田と同じように並外れた実力を妬まれ、上級生から虐め紛いの暴行を受けたこともある。雨宮は憤った。何故彼らは自分と他者の力量を比べてばかりで真剣に音楽に向き合おうとしないのかと。
ただ一心に音楽だけを見つめてきた。実力は、結局そのために培われたのだと思う。
「しかし吉田、お前は栄一さんのどこが気に入らないんだ?」
気がかりだったのは、吉田がそこまで父親を毛嫌いする理由だった。
「それはセンセーと同じじゃない?」
「何のことだ」
「よく言われるんじゃないの、『創設者の孫、理事長の息子だから』って」
「……」
雨宮惣一は、私立檜山学園の創設者檜山尊氏の孫にして、現在の理事長雨宮幸一の息子である。これまでが完全なる世襲経営であるだけに、雨宮が次期理事長になる可能性が高いなどという噂がまことしやかに流れていた。
しかし雨宮は理事長どころか、教師になるつもりすらさらさらなかった。学生時代はプロのトランペット奏者を志していたのだ。それを諦めざるを得なかったのは、大学卒業間近に呼吸器系を患い、二度と以前のように楽器を吹くことはできないだろうと医師に宣告されたからだった。
人生の目的を失った雨宮に父は言った、何もすることがないなら教師になれ、と。
生まれてから三十年近く、教育を使命とする祖父や父の背中を見、自身もそうなるように期待をかけられ続けた。そんな日々を振り返れば、世界的トランペット奏者吉田栄一を父に持つ彼女の気持ちも理解できる気がした。
雨宮も父を好いてはいない。嫌悪しているわけではないが、その感情は好意とは別のものだと自覚している。
「まさかお前は……プロになるつもりはないのか?」
「当たり前。誰があのオヤジと一緒の職業なんか」
信じられなかった。あれほどの実力を高校一年生にして持っていながら、吉田はそれを趣味の範囲で終わらせるつもりなのだ。
もったいない。雨宮は純粋に、そう感じた。
「あたしはならない。家族をほったらかしにして金髪の美女にちやほやされるためだけにワールドツアーに明け暮れてるあのオトコみたいな人間には絶対にならない。お金じゃない、評価じゃない、あたしにとって大事なのはただ──音楽だけだ」
チェアにすとんと腰を下ろし早くもくつろぎながら、吉田は何もない壁を睨みつけ、きっぱり言い切った。
「それを、栄一さんに言えばいいだろう」
「……言うつもりだよ。でもそれは今じゃない。やるからにはとことんやる。そうやって闘う為には準備が必要じゃん」
自分はこのように闘おうとしたことがあっただろうかと、雨宮は過去を思い返す。そして一度も、理解されようとしなかったことに気づかされた。
教育に携わることを常に要求してくる彼らに、雨宮は何も示さなかった。ただ黙って自分の目標だけを見ていた。
もしも自分の意思を訴えていたなら、結果は違っていたのだろうか。
──わかるはずもない。
(すべては今更だ)
作品名:Father Never Say... 作家名:9.