Father Never Say...
俺がいても、いなくても
東海林が春日家に向かっていた頃、偶然再会したふたりの男が、やや堅い雰囲気のカフェで顔をつきあわせていた。
一方は白河善人(しらかわ・よしと)、旧姓山谷。前述の通り、名家白河の令嬢聖子が未亡人となった時、彼女に近づき、まんまと白河に婿入りして一族を懐柔し、グループ取締役の座を手にした。
──実は聖人は婚前にもうけた子である。聖子いわく、それは政略にすぎず愛のない結婚であったというが、善人自身がその実際を語ったことはなかった。
いま一方は吉田栄一。こちらも前述のとおり、世界的に有名なトランペット奏者である。学生の頃アメリカで出会った日本人留学生の才女と結婚し、エリを授かった。しかしここ数年は世界各地でのコンサートの為にほとんど家庭をかえりみず、海外に女性が複数いるのではとの噂があった。栄一もまたその事についてはノーコメントを貫いている。
「奇遇だな。君のように忙しい人にこんなところで会うとは思わなかったよ、吉田くん」
「それはこちらのセリフですよ、山谷……いや、今は白河さん、でしたっけ」
「昔のままで構わないよ、呼びにくいのなら」
「じゃあお言葉に甘えましょうかね。山谷さん……ずっと聞きたいと思っていた。もうトランペットに触れるつもりはない、か?」
「……」
大学時代、善人と栄一は同じ音楽サークルの先輩後輩という仲だった。そこで善人は栄一に並ぶ腕前とさえ言われていたのだ。
「……ないな。今の俺には、人を動かす方が楽しいのでね」
少し考えてから、善人は晴れやかに微笑んだ。
「少しも未練はない、と?」
紫煙を吐き出し、サングラスの下の瞳に悔しさと諦めを滲ませて、栄一は苦笑しながら尋ねた。
「ああ、ないよ。元々音楽で食っていくつもりはなかったし、それがなきゃ生きていけないわけでもない」
「……そうか。残念だ」
口ではそういいながら、栄一はどこか納得し切れていないようだった。
「ところで、娘さんは元気?」
しんみりとしかけた空気を元に戻すように、善人は話題を転じた。
「あいつは今、臍を曲げていてね。本人いわく、家出だそうですよ」
「喧嘩でもしたのかい」
「さてね、日常会話が親子喧嘩みたいなものだったから」
「いいんじゃない?喧嘩するほど仲がいいってことだろう。うちのなんて、今まで一度も私に逆らったことがない」
善人は表情を曇らせ、空になったコーヒーカップを元に戻した。
「一度も?冗談でしょう」
親子といっても男同士、時に衝突することもあるだろうと、栄一は首を傾げる。
「本当だよ。それどころか私は、聖人が怒ったり泣いたりしたところを見たことがない」
瞼を閉じてすぐに思い浮かぶのは笑顔ばかりで、歪んだ表情など想像すらできないのだ。
たとえ忙しくとも十分にコミュニケーションを取ってきた筈なのに、自分は実の息子にすら心を開いてもらえていないのかと、悩んだ時期もあった。むしろ気を遣われていたのだと気付いたのは、たったひとつの嘘を暴露してしまった後のこと。
「……お互い、子供のことでは苦労しますね」
「ああ、そうだね」
どんなに似ているように感じても、親と子ではやはり違う生き物なのだ。前者には前者、後者には後者の思いがある。
そんな事を思いながら、善人は栄一と別れた。
(少し遅れてしまったな)
車に乗り込みエンジンをかけ、ふと目を遣った時計は予定時刻を過ぎている。善人は苦笑しながらシートベルトを締め、弟が釈放される筈の交通刑務所を目指した。
普段は静寂に包まれている筈のその場所は、しかしその時騒然としていた。背広や制服姿の男達が血相を変えて門の前に固まり、何やら話し合っている。
「あの、何かあったんですか?」
目を懲らしても理人の姿はない。仕方なく声をかけると、顔見知りの特殊矯正処遇官が答えた。
「ああ、お兄さん。実はあいつ、あんたが迎えに来るって知った途端、私の腕を振り切って逃げちまいましてね」
「は?」
「刑期は消化したわけで、こちらとしてはまあ何の問題もないんだが……しかしあいつがどういうつもりなのかと考えると心配でしょう?」
「え、ええ……」
言われた意味を飲み込めないまま、善人はぼんやり周りを見回し、頭の中で情報を整理する。状況を把握するまでに、それほど時間はかからなかった。
「あいつ……!」
「あ、お兄さん!?」
再び車に舞い戻り、思い切りアクセルを踏み込む。来た道とは反対方向へと車を走らせながら、善人は軽く舌打ちした。
好かれてなどいないとわかっているのに、何故こうなると予想できなかったのか。
──ふざけるな、絶対兄貴の世話にはならないからな!
今も鮮やかに思い出される、あの日の理人の声。
(傷つけてばかりだな、私は)
*
兄が迎えに来たと知って逃げ出した山谷理人に、明確な行く宛があるわけではなかった。
獄中の人となったあと、愛想を尽かした妻は出て行き、残された両親は介護の手が必要なくらい衰えていたから、兄・善人が養護老人施設を世話したらしい。息子の理央も兄の屋敷の一室に居候し、空になった山谷家は締め切られて、現在鍵を握っているのはやはり兄だ。
はじめこそ勢いよかった理人の脚は次第にスピードを緩め、やがて立ち止まる。兄の手を離れてはもはや何もできない自分を改めて思い知り、嫌気がさした。
前科者となる以前から、理人の人生には優秀な兄の影がつきまとっていた。彼と同じ道を辿ることを両親や教師に期待され、そしてがっかりさせた。素直に兄を誇りとし、彼を目指していた時期もあったが、兄のようにはなれないのだと自覚してからは、坂道を転げるように堕落していった。
髪を派手に染めるとか、ピアスの穴を開けるとか、遅刻早退無断欠席が多いとか、可愛いものだったがそれでも両親は眉をひそめ説教をくれた。理解を示したのは兄だけだった。
「父さんも母さんも大袈裟だな。盗んだバイクで走りだしたわけでもあるまいし。理人は貴方達の理想を叶える人形じゃない、自分の意思を持つひとりの人間だ」
ありのままの自分を受け入れ、それがどんなに理想と掛け離れた姿でも、拒絶しないで欲しい。理人のそんなささやかな願いを、兄だけが探り当てた。
理人が舞台俳優を志し、劇団入りを決めたときも、まだ学生だった妻に子供ができたときも、兄が両親を説得してくれたからこそ上手く事が運んだ。もし彼の助けがなかったら、両親とは絶縁状態になっていたかもしれない。
兄には本当に感謝してもしきれないくらいだった──白河の家の力で裁判を操作してくれるまでは──。
所在なげに首を巡らした理人は、数年の歳月のために随分と街並みが様変わりしていることに気付いた。あるはずの店が消え、無かったはずのビルが建てられ、凸凹だった道路は舗装され、交番はKOBANになり──ボロかった橋が綺麗に塗り変えられている。
(立派に成り立ってやがるぜ)
覗き込んだ川すら前より濁ったように思えて、乾いた笑いがもれた。
「理人さん……?」
正面から声をかけられたのはそんな時。視線を前に戻しても、目の前の制服姿の少年が誰であるか、すぐにはわからなかった。
作品名:Father Never Say... 作家名:9.