せんこうはなびの約束
何時まで待っていたのか、はっきりとは覚えていない。だが母親の言葉からして、おそらく9時は過ぎていただろう。
玄関チャイムが鳴り、飛びついて開けたドアの先に「おにいちゃん」がいた。慌てて出てきた母親が、後ろで驚く声がした。
『ごめんね、遅くなって。すみません、30分ぐらいで連れて帰りますから、今からいいですか』
自分が持っていた花火セットを引き受け、母親が驚きつつも許可を出すのを聞いて、彼は『すみません』ともう一度言い、自分の手を引いて外へ出た。
昼間は晴れていた空にはいつの間にか雲が増えて、月や星をほとんど隠していた。団地を一歩出ると辺りはやけに暗く、まばらな水銀灯だけが夜道を照らしていた。
『風が強いなあ……これじゃ他の公園も無理かな』
空を見ながら「おにいちゃん」がつぶやく声に、また不安がこみ上げてきた。彼と花火ができる、一緒にいられる最後の日なのに。
『そうだ。ちょっと遠いけど、海岸に行こうか。あそこなら広いし』
住んでいた町は海沿いで、海水浴場はなかったけれど、地元の人間が遊べる程度の小さな砂浜はいくつかあった。団地からだと少し距離があったが、彼と一緒なら遠くてもかまわなかった。つないだ手をぎゅっと握りしめて、うんうんとうなずいた。
たどり着いた海岸には、誰もいなかった。後で知ったのだがその日は台風が近づいていて、直撃する進路ではなかったものの、大型であるために風に影響は早くから出ていた。だから他に花火をしに来る人も、遊びに来る人もいなかったのだろう。
「おにいちゃん」が台風のことを正確に知っていたかどうかはわからないが、いつもよりも波が荒いことには気づいていただろうと思う。何度も『あんまり海に近づいちゃダメだよ』と言われたから。
だがはしゃいでいた自分は、その注意を耳にしながらも真面目に聞き入れようとはしていなかった。「おにいちゃん」が花火セットから花火をほどくたびに手に取り、波打ち際まで駆けていくことを繰り返していた。
危ないよ、と何度目かに彼が言った時、風がひときわ強くなった。ほどなく、急に波が高くなって砂浜に押し寄せてきた。
彼に抱え上げられて波打ち際を離れるのと同時に、当時の自分の身長より高い波が、音を立てて上陸した。砂浜を何メートルにも渡って濡らした後、砂の表面を削り飲み込みながら海に戻っていった。
『……大丈夫?』
自分を抱きかかえたまま、息を切らしながら「おにいちゃん」は尋ねた。彼も、そして自分も、完全には逃げ切れずに背中から波をかぶり、肩から下はずぶ濡れだった。だが彼のおかげで水を飲むことはなく、『うん、だいじょうぶ』と返した。
心底安心したように「おにいちゃん」が大きく息をついた時、波にさらわれかけた事実をやっと認識して、少しの間恐怖を感じた。しかしすぐに花火のことを思い出し、恐怖は吹き飛んでしまった、
『はなび』とつぶやいた自分を下ろして、彼は花火を広げていたあたりに戻った。花火がどうなったかは一目瞭然で、一部は波にさらわれてなくなり、残ったものも全部波をかぶって水浸しで、とても使い物にはならなかった。
ひとつひとつを手に取り、確認する「おにいちゃん」の表情が曇っていくのを見て、泣きたくなった。花火ができなくなったらしいことも悲しかったが、もっと辛かったのは、彼がせっかく約束を守ってくれたのに、それを自分のせいで台無しにしてしまったことだった。たぶん生まれて初めての罪悪感で、辛くて辛くて、泣きたいのに泣けなかった。
すべての花火を確認し終えて、難しい顔で首を振った彼が、何かに気づいたように自分を見た。
『それ、見せて』
と彼が指差したのは、自分の右手の中にあったもの。波をかぶる前からその時までずっと握りしめていた、線香花火。渡した「おにいちゃん」の表情が少し明るくなった。
『あ、これなら使えそうだ、よかった』
『……はなび、できる?』
『うん、持っててくれたおかげでほとんど濡れてないから。たぶん大丈夫だよ』
と「おにいちゃん」が笑ったので、自分もちょっとだけ、泣きたい気分が引っ込んだ。それでも本当にその花火が使えるかどうかは不安で、彼がライターから直接、慎重に炎を移し、花火が燃え始めるのを見てようやく、心からほっとした。
毎年の花火では大人たちの専用品みたいになっていて、自分ではやってみたことのなかった線香花火。他の花火に比べると地味にも思えたから、その時までじっくり見たこともなかった気がする。
じわじわと赤い部分が広がり、小さな火花が姿を現し、次第にその数を増やしていくのを、二人して無言で見守った。赤い球の周りに、ぱちぱちとかすかな音を立てて火花が舞う様は、きれいだった。上の道にある水銀灯が砂浜を薄く照らしていたが、その明かりを遠ざけるように思えるほど鮮やかな光に、それが徐々に収縮して赤い球に集まり、煙の匂いを残して砂に落ちるまでの時間、静かに見入っていた。
吹く風に濡れた服が冷やされ、寒くなってきていたが、「おにいちゃん」にせがんで線香花火は全部やってもらった。そうして家に帰った頃にはずいぶん時間が経っていて、自分も彼もそれぞれの親に懇々と説教された。
翌朝、39度の熱を出した自分は、父親におぶわれて団地を後にした。それさえ記憶が曖昧な状態だったから、「おにいちゃん」とは顔を合わせていない。だが、もし自分が無理に訪ねていったとしても会えなかっただろう。後で聞いたところによると、彼も熱を出して寝込んでいたそうだから。
ちゃんと別れを言うことも、謝ることもできなかった。最後に交わしたのはひとつの約束。
『おにいちゃん、またあえたら、はなびいっしょにしてくれる?』
『いいよ。楽しみにしてるからね』
帰る道でつないだ手のぬくもりと、そう言ってくれた時の彼の笑顔は、今でもはっきりと思い出せる。
……あれから、14年。
「おにいちゃん」の一家が今どこにいるのかはわからない。自分たちが団地を離れて数年後に彼らも引っ越したらしく、その際に住所変更の手続きがきちんとできていなかったのか、手紙も年賀状も返送されてくるようになった。以来、連絡は取れていない。
海に近いあの町で過ごした日々、あの夏ははるかに遠く、仲の良かった人たちとも隔たってしまった。短大に入ってから一度だけ町に行ってみたことがあるけれど、「おにいちゃん」がいないと思うせいか記憶の懐かしい町とはどこか違う気がして、それからは足を運んでいない。
14年の月日は長い。7歳だった自分が短大を卒業して社会人になるほどに。あの時受験生だった「おにいちゃん」は今年29歳。もしかしたらもう結婚していて、子供もいるかもしれない年だ。昔近所に住んでいた子供との約束なんて、忘れている方が自然だ。
だけどそれでもいいから、もう一度、彼に会いたいと思う。元気にしているのか、どんな暮らしをしているのか知ることができれば——そして、たとえ彼が覚えていなくても、あの時迷惑をかけてしまったことを直接謝ることができればそれでいい。
花火を目にするたびにずっと、そうやって願い続けている。
作品名:せんこうはなびの約束 作家名:まつやちかこ