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にしんの漬物
にしんの漬物
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始まりの物語

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 日が完全に落ち、人がいなくなった。ようやく安心したのか深呼吸をした後前かがみになり、目を閉じた。寝ているように見えるが、耳はしっかりと周りの音を捉えている。夏には少し早い時期で、日が落ちると少し肌寒い。それでも気の早い一部の夏の虫達がもう鳴き始めている。それはまるで遠くの方でささやかな演奏会を開いているようで、緊張しきった少女の心を少しだけ落ち付かせた。
「これからどうなるんだろう…」
 少女は目を閉じたまま不安そうに呟いた。小さな呟きはまだ少しだけ冷たい風にかき消され、誰かの耳に届く事はなかった。建物の隙間を行く風は細く冷たい。薄着の彼女にはその冷たさが応えた。膝を両手で抱え、身を丸め寒さを凌ごうとした。
「こんなところで女の子が一人、家出か?」
 突然上から声が降ってきた。驚いて顔を上げると、目に入ったのはわずかに差し込む月明かりに照らし出された顔…その顔には、額から右目の下、左頬に二つの刀傷が刻まれていた。くすんだ金髪に額に巻かれた水色の汚いバンダナ。その眼光は鋭く、少女は体を縛り上げられたかの様に動けなかった。左の腰には両手持ちできる長い剣が差されていて、彼が剣士である事を示している。彼は両手を彼女の逃げ道を塞ぐかのように彼女の左右に貼りだし、壁に押しつけている。
「ここは比較的治安がいいとは言え、夜は流石に危ないぜ。何なら俺が家まで送ってやろうか?」
 まだ20歳かそこらに見える彼の声は低く、凄味のあるもので、少女は恐怖と不安からか震えており、その目には涙が浮かんでいる。
「そこの不審者!その子から離れろ!」
 また別の声が青年に警告を鳴らした。二人が声の主を見る。月の光を反射する銀色のロングコートと艶やかな長い黒髪。鍛え抜かれた肉体と、その手に握られた巨大な剣。ペイルだった。彼はジャンヌを探し、偶然ここに来た。ペイルは、少女を一瞥すると驚いたように顔を強張らせる。が、すぐに男の方を向き、
「今すぐその子から離れろ。さもなくば…」
 ペイルは担いでいた大剣を肩から離し、切っ先を男の方に向けた。
「さもなくばどうする?」
 男も長剣を抜く。
「王国騎士の権限をもってお前を逮捕する。」
 お互いに睨みあう二人。その間には凄まじい殺気が交わされ、少女は周囲の空気が震えているような錯覚すら覚えた。
 一陣の風が駆け抜け、三人の髪と服をさらう。
「ここじゃ満足に剣も振れねぇ。表行こうぜ。」
 男がペイルに提案した。彼も、もっともだと同意し、狭い通路から広い通りへと出る。
ペイルは少女を見ると、少し残念そうな顔をした。そして「今のうちに逃げろ」とだけ言い、角を曲がって行った。優しい彼の顔と声の余韻がいつまでも彼女の頭から離れず、ただ呆然とペイルの通って行った角を見つめていた。


「ここなら広いし、月明かりで十分明るい。」
 商店街から少し離れた、普段大勢の人々が絶え間なく歩く大通り。満月に近い月の光を遮るような建物もなく、戦うにはちょうどいい場所だった。
「さて、人を不審者呼ばわりした無礼極まりない騎士様に、お灸をすえてやらないとな。」
 男は、長剣を両手で持ち、切っ先をやや右に傾けた下段に構えた。するとペイルは不快な顔で
「貴様も剣を振るう者なら名ぐらい名乗ったらどうだ?」
 と大剣を両手で持ち、隙なく正眼に構え、感情の無い声で礼儀知らず、となじった。男は「いちいち律儀だな…」と文句を言いながらも名乗った。
「リョウク・スルトだ。」
「セイマ王国騎士団ペイル・マスティーク。」
 お互いが名乗った直後、同時に踏み込んだ。大きな金属音が鳴り響く。ペイルの振り下ろした剣と、リョウクの振り上げた剣が激突したのだ。だが、大きな武器を軽々と振るうペイルの豪力に耐えられず、後方に弾き飛ばされるリョウク。体勢を直すと、目の前にはすでにペイルが迫って来ており、今にも剣を振ろうとしている。リョウクは冷静に剣を構えなおすと、左から右に薙ぎ払われる大剣を今度は受け止めずに力の方向を変えるように自分の剣で弾いた。自らの豪力が裏目に出て、大きく体勢を崩すペイル。だが、リョウクも相殺しきれなかった力に押され、後ろに弾かれる。
 戦いは互角だった。力ではペイルが勝り、技巧ではリョウクが勝る。ペイルが攻めればそれを逸らし、リョウクが押し込む。そしてそれをペイルが受け止め、斬り返す。先にミスを犯した方が負ける。相手のミスを誘発する、相手の隙を作りだす。二人はそんな戦いをしていた。お互いの力が拮抗しているため、それすらも困難な状況だ。
「やるじゃねぇか。伊達に騎士をやってるワケじゃなさそーだな。」
「お前こそ、随分凶暴な剣技だな。」

 攻撃の手を休め、言葉を交わす二人。やや息が上がっているが、まだ撃ち合う余裕はあるようだ。リョウクが素早く踏み込みながら、小さく鋭い斬撃を放つ。左から右に向かい薙ぎ払われた一撃を冷静に受けると、刃を返すように下から上に小さく振り上げ、そのまま振り下ろした。今まで大ぶりばかりだった彼の攻撃が突然小さくなった事に戸惑い、思わず後ろにステップを踏むように下がる。それが隙となり、次の瞬間ペイルに猛烈な逆袈裟斬りを撃ち込まれた。今までで最も大きな金属音が響く。何とか受け止めたものの、あまりにも強い力に押し返す事が出来ない。かと言って引き下がれば即斬られるだろう。
「降参して、お縄についたらどうだ?」
「冗談言うな。俺は誰にも捕まらねぇし、捕まる理由もねぇ。」
 強がっているものの、徐々に腕から力が抜けて行く。その度にペイルの大剣が眼前に迫ってくる。終わりか…リョウクが覚悟を決めた時だった。
「やめてっ!!!!!」
 小さな体が押し合う二人の間に割って入る。ジャンヌだった。大剣を握るペイルの腕にしがみ付き、リョウクから離そうとしている。ペイルの力をもってすれば、彼女を引き剥がし、リョウクにとどめの一太刀を浴びせるのは簡単だ。しかし、彼にはそれが出来なかった。ペイルは大きくため息をつくと、リョウクの剣から自分の剣を離し、肩に担いだ。
「何故、邪魔をした?」
 ペイルは少し不機嫌な顔をしながら、今も自分の腕にぶら下がって自分の顔を見ている少女を問い詰めた。
「いま、この人斬ろうとしてたから、あたし、とめようと思って…」
 ジャンヌは、ペイルの腕から手を離し着地すると、下を向きながらそう言った。
「…別に本気で斬ろうと思ってたわけじゃねぇよ。」
「(あの殺気は本物だったぞ…)」
 ペイルがそっぽを向きながら言った言葉に心の中で突っ込みを入れるリョウク。彼はペイルに押し込まれていた時、本気で死を覚悟していた。それとも「思ってた」が、途中で心変わりしたのか、と。
「(それにしてもいい子だな)ま、おかげで怪我もしなくて済んだし、お礼に俺の熱い抱擁でもどうだ?」
「いらない。それにこんな時間にやってたら、近所めいわくよ?」
はっきり断られた上、注意まで受けてしまった。本気でヘコむ大男二人。とにかく、人が来る前に退散しようとその場を後にする。適当な所で腰を下ろすと、用件を話そうとするペイル。だが
「何でお前がいる?」
 彼の視線の先には先ほど自分と剣を合わせていた傷男リョウクがいたからだ。
作品名:始まりの物語 作家名:にしんの漬物