拾い零したのはなあに?
「お兄ちゃんのお友達がいてね」
兄の身体を揺らす手は止めず、輝く瞳は楽しげに語る。
「やっとだよ。やっとこれでお兄ちゃんは……」
ふ、と。幼い声は押し黙った。
違和感を感じ取ったのか、恐る恐る兄の顔を覗き込む。
「……お兄、ちゃん?」
物言わぬ兄に妹は何を思ったのか。布団の上から揺らしていた手を、兄の頬に触れさせた。
「っ、」
息を飲み、それを直ぐに引っ込めた。
目を零れんばかりに見開き、兄を凝視した。
「な……んで、冷たい、の?」
ぽつりと零した言葉は無意識からか。
「だって……あれは、」
床にへたりこみ、じりじりと後退りをする。顔は、兄から逸らすことを許されないまま。
「ねぇ、今日の夕食なんだけど……」
トントンと軽快な音が階段を上る。普段と変わらない母の声。
妹は泣きそうに顔を歪めた。
「ママ……」
「あら、そんなところに座り込んでどうしたの?」
か細い声が震えるのに母は気付いたのだろうか。
妹が兄と仲良くしていると普段なら嫌そうに顰める眉が今は動かず、首を傾ぐだけだ。
「お兄ちゃんが、」
その一言を聞き、母は兄の部屋へと足を踏み入れた。
妹に背を向け真っ直ぐにベッドに近付き、ちらりと一瞥する。薬剤師には似つかわしくない、毒々しいまでの鮮やかな赤に彩られた爪先で兄の頬に触れる。
「……死んでるわ」
さあっと妹の顔から血の気が引いた。
「窒息死ね、きっと。……あなた、もしかしてお砂糖使った?」
口元に当てられた手が小刻みに震えている。妹はこくりと小さく頷いた。
「あか……い、蓋の、を」
「……使っちゃダメって言ったでしょう?」
静かに発された母の声に妹は喉を震わせる。
知らない。そう声帯を震わせたつもりだったが、実際は掠れた空気が漏れるだけ。
「あのお砂糖にはパパのお薬が入ってるんだから、って」
嘘、だ。妹は母の背を凝視した。
母の言葉を否定したかったのだろう。だが否定すれば何故兄は死んでいるのか。その説明が出来ない妹は、母の言葉を受け入れるしかなかった。
「ママ……どうしよう、わたしっ、お兄ちゃんを」
がくがくと身体が震えている。
歯の根が合わず、ガチガチと嫌な音を立てる。
白いふっくらとした頬に、筋がいくつも作られる。
「わたし、お兄ちゃんを……!!」
パニックに陥った脳は物事を処理出来ない。
視線は逸らすことを許されず、また瞼は閉じることを許されず。
妹は兄の死に顔に、縫い付けられたように視線を固定したまま。
そんな妹を、母はそっと抱きしめた。
「大丈夫よ」
慈愛の篭った母の声。生きている温かな母の体温。
妹の強張っていた身体を解すようにそれらは働く。
「この子が死んだのは私と貴女しか知らないわ」
「私がいいように事を運んであげる」
「貴女を兄殺しにはさせないから」
「貴女は私の言葉に合わせなさい」
幼子に言い聞かせるようにゆっくりと一句一句切られる言葉。耳元で優しく囁かれる科白。
妹の混乱に満ちた思考を甘く溶かすようにそれらは侵食する。
「貴女はいい子だから……出来るわね?」
妹はこくりと一つ、母の言葉に頷いた。
****
「ただいま」
何も知らない父が帰宅した。大理石の床のリビングに踏み入る姿は普段と変わりない。
「お帰りなさい、あなた」
母の声に頷くことで返事をし、椅子に座り俯く妹の金髪を大きな手で撫でた。
「いい子にしていたか?」
ぎこちなく頷いた妹に気分を良くしたのか、満足げに笑う。鞄を母に手渡し、定位置に座った。
そこでふと辺りを見渡し首を傾げる。
「おや、あの子はどうしたんだ?」
「っ」
「あの子ならお友達のお家ですよ」
身体を大きく震わせた妹。
しかし父が妹に気付く前に母がトレイを持ってやってきた。トレイの上には美味しそうに湯気を立たせる食事が乗っている。
「おお! 今日はシチューか」
並べられた食事に、子供のように瞳を輝かし嬉しそうに笑う。
「シチューはお好きですか?」
「ああ」
「そうですか。沢山あるのでお腹一杯どうぞ。私たちは先にいただいたので」
バケットが入った籠を真っ白のテーブルクロスの上に起き、母は鮮やかに笑んだ。
****
シチューを一人でぺろりと平らげた父は今入浴中だ。
母はキッチンで変わらずかわいらしいく鎮座するお菓子を口にほうり込む。
夕食どころではなかったので、空腹だったのだ。
「毒なんて入っているわけないじゃない」
咀嚼し飲み下す。相変わらず美味しいと感じながら、仕事に行く準備をする。
小瓶たちと行儀よく並ぶ赤い蓋の砂糖入れには、まだ白い粉が入れられていた。
「もうこんな時間……」
車庫で水溜まりを踏んだのかぴちゃりと水音。しかし母は気に止めず、エンジンをかけた。
曇った空模様を思い出し母は口角を吊り上げる。
「可哀相な子」
そしてアクセルを踏んだ。母を乗せた車は明るい夜の世界に紛れる。
リビングで泣きながら妹は兄の残骸を床に埋めていた。
大理石の下。冷たさがせめて紛れればいいと毛布に包んで。
「お兄ちゃん……」
わたしの、ゆいいつの、みかただったのに。
呟いた言葉は落ちた水滴の音に吸い込まれた。
「パパ?」
二階に行こうと廊下を辿っていると、うろうろしている父を見た。
姿はすっかり寝る準備をしている。
「ああ、私の薬を知らないかね?」
「お薬?」
「寝るための薬だ。確かベットヘッドに置いていると言っていたんだがなくてな……」
「言っていたって、ママが?」
「そうだが……それがどうかしたかね」
困ったように眉を八の字にする父に妹は目を伏せて首を振った。
「…………ごめんなさい」
「そうか……。そうだ、今日はあの子もいないことだし一緒に寝ないか?」
気分が沈みっぱなしの妹を気にしていたのだろう。父は慰めにか、そう提案した。
妹は暫く沈黙した後、ゆっくりと頷く。
「……わかりました」
すると父はシチューを前にしたときのような表情を浮かべ、妹の髪を梳いた。
「いい子だ。先にベッドに行っておいで」
「パパは……?」
「私は何か甘いものでも飲んでくるよ」
キッチンへと消える父の背を少し眺め、妹はベットルームへと歩を進めた。
橙色の明かりの点いた、薄暗く冷たい廊下を一人辿る。
ぱたり、ぱたり。スリッパが音を奏でる音に耳を澄ませながら。
父親のベットルームの大きな扉を開き、身体を滑り込ませた。
体温を感じ明かりが勝手に灯る。広いベッドに投げた身体は、スプリングが柔らかく抱き留める。
シーツに片頬を付け、妹はぼんやりと窓を見遣った。分厚いカーテンが閉まった窓では外を見ることが叶わない。
自らに覆いかぶさる影を知っていながら、妹は薔薇の花を咲かせた。
「お休みなさい、お父様」
****
「ねぇ知ってる?」
朝、授業の始まる前の教室で噂好きな少女たちが会話に花を咲かせる。
「昨日の夜、自動車事故があったんだって」
「知ってるわ。川に落ちたのでしょう?」
「ブレーキ跡がなかったって話よね」
潜められた少女の声に別の少女がぱちりと瞬いた。
作品名:拾い零したのはなあに? 作家名:佳奈