死に損いの咲かせた花は
【二】
一晩明けて――自己嫌悪。
「……あーあ……」
与えられた部屋で大の字に寝転んだ左門は、大きく溜息をついた。
信長直々の許しを得て、左門は力丸の守り役としての立場を得た。武芸者としての実力はもとより、言動をみた限り思慮分別のない人物ではないだろうということ。そして何よりも、力丸に素直に言うことをきかせられるという点が、一番評価を得たらしい。
ただ坊丸の心配も一理ある。そこで左門は、一度とある武家の養子に入り、その後正式に守り役に就くこととなった。自分が誰の息子になるのかはいまだ聞かされていないが、手配はすべて乱丸が行うらしい。
殺気を隠しおおせなかった自分の未熟を思い返し、左門は寝ころんだまま両手で顔を覆った。
信長はおそらく左門の気配に気付いただろう。そしてそれを、どう考えたのだろうか。
瞼の裏に、感情に引きずられるようにして、浮かび上がる光景。
忘れもしない、住み慣れた里の惨状。血と炎に覆われ、まるで秋の夕焼けのように美しい、魅入られて目をそらせなかった悪夢。
それでも左門は、この依頼を受けた。そして受けた以上は、信長を守り生かすことに納得したつもりだった――のに。
馬鹿野郎、と口の中で呟いて、左門は大きく息を吸った。
まぶたを閉じれば思い出す、何よりも愛しかった恋人の笑顔。
「……椿……」
思うだけのつもりだった彼女の名が耳に届き、その音に胸がしめつけられて左門は唇を引き結んだ。
「失礼。お休み中ですか? 力丸殿の先生は」
閉じていた目を、開く。
部屋の障子の向こう側から、静かに問いかける男の声がした。
音を立てずに寝転んでいた体を起こし、着物を整えて座り直す。声は一人だったが、人影は二人だ。
「いいえ。失礼ですが、どなたでしょうか?」
「ああ、取り次ぎもせずに申し訳ない。丹波の明智十兵衛光秀といいます」
光秀と名乗る男の声は穏やかで、何の含みもなさそうな響きは低く心地いい。左門は静かに障子を開くと、声の主であるらしい中年の男性と、その男の後ろにいる不惑の女性に向かって手をついた。
丹波の明智といえば、織田軍の重鎮だと聞いている。左門はそのまま、何もない部屋に招き入れる。
「噂を耳にされた大殿の奥方様が、ぜひ先生に会いたいと仰いましてね。それでこちらにお邪魔しました」
「噂?」
「ついに力丸殿の手綱をとる者が現れた、と」
笑って言う光秀の向こうから、興味深げに左門を見下ろす女性。眼尻に薄いしわがあり、けれど凛とした姿勢で清廉な美しさを印象付ける――彼女が信長の妻らしい。
彼女に道をゆずる格好で端に寄った光秀の影から、奥方付きの侍女が物珍しそうに左門を見る。そのまま背伸びまではじめたのに気付き、それを小声でたしなめる様子は不思議と若々しく、どこか可愛らしかった。
気を取り直しあらためて左門を見下して、再度平伏した左門に顔を上げるよう告げる。
「そなた、名は?」
「桜と申します」
前に出た彼女が、膝を折り左門の顔を間近に見た。
と、いきなり扇子で顎をすくい、少し横に向けたりして、まるで汚れでも探すようにまじまじと観察を始める。しかし期待した結果は得られなかったらしく、しばらくすると面白くなさそうな表情になって、軽くため息をいた。
「ずいぶんと優しい面立ちね。腕に覚えがあると聞きましたが、その美貌も武器のうちなのかしら?」
「帰蝶殿、失礼ですよ」
「かまうものですか」
にやりと口角を上げるだけの笑みに、左門はさらに深く頭を下げる。
「……さて。私は部屋に戻ります」
扇子を引き、立ち上がり着物の裾をさばく。そしてそのまま、部屋を出ていく。
その後姿に続いた侍女が振り返った。左門と目があって、軽く頭を下げて、小走りに帰蝶を追いかける。
侍女が行き過ぎるのを待って後に続いた光秀が、変わらず両手をついたままの左門に気付いた。
放心した左門の様子に、光秀は微笑むと身を寄せる。
「桜殿」
内緒話をする時のようにとじた扇で口元を隠し、子声で光秀が左門に話しかけてきた。
「大丈夫、気を悪くしたわけではありませんから。帰蝶殿はいつもあんな風です」
「出過ぎたことを申されますな、明智殿」
穏やかな空気の中、若い男の声が割って入る。
声に振り返った明智がどんな顔をしているのか、左門からはわからない。しかしいい気はしていないのだろう、小さく息を吐いたのが肩の動きで分かった。
左門にも覚えのある男の声は、どこか固く、少し嫌味に響いて聞こえた。
「奥方様は大殿の御正室。あまり気安くされますと、あらぬ疑いを招くことにもなりましょう。慎まれた方がよろしいのでは?」
「慎むのはお前の方です、乱丸」
尖った声音で声の主を咎めたのは、帰蝶。
「失礼をいたしました。しかし奥方様を思えばこそ。どうかお気を悪くなさいませぬよう」
しかし当の乱丸は特に気にした風もない。端によって跪き、帰蝶に向かって深く頭を下げたのが障子越しに分った。
無言で退場を促された帰蝶の方は、一呼吸の後、それでも足音を荒げず立ち去った。
とたとたと軽い音を立てて侍女が従ったのを見遣り、光秀も部屋から出て行く。乱丸と目があったらしい彼は軽く視線を落とし、それ以上は口も開かず、静かに立ち去った。
さて、と思う。
乱丸は何のためにここに来たのだろう。帰蝶、あるいは光秀に用があったのであれば、一緒に立ち去ったはずだ。
障子越しに乱丸が立ち上がったのが分かり、左門は思わず下腹に力を入れる。未熟者とは言うなかれ。目の前であんなやり取りをされて、まったく構えるなと言われても、それは無理な相談だ。
開け放されたままの障子から姿を見せた乱丸は、断りもせず左門の部屋へと足を踏み入れた。
「昨日はよく眠れたか?」
乱丸の声音は不思議と静かだった。しかし気配は固く、視線と共に刺さるぴりぴりとした緊張に、気の弱いものだったら胃が痛くなりそうだと左門は思う。
昨日の謁見を思い出す――力丸や坊丸ならいざしらず、さすがに乱丸や信長にまで左門の様子に気付かなかったとは思わない。
乱丸の腰には、二本の刀。
「……はい。おかげさまで」
「誰の差し金だ」
慣れた動作で大刀を抜いた乱丸の切っ先が、左門の眉間に当てられた。
「……一体何なんですか、急に」
「お前が持っていた口利きの文はでたらめだったそうだな。騙されたと困り果てたお前を哀れんで、空きがあるから下男として雇ったのだと聞いた」
眉間に傷ができた気配はなく、今はただ尖った物が当たる感触がするだけだ。しかし左門がわずかにでも動けば、おそらく乱丸は刀を薙ぐことを躊躇わないだろう。
「……信長様の御身を心配してのことだとは承知してます。ですが、いきなりこんなのは……いくらなんでも乱暴じゃありませんか?」
「こちらの言葉を先読みして答える、お前のその頭の回転の早さが信用できない」
「仕方ないでしょう、私は頭がいいんだから」
自分で言うな。
――と、誰も言い返してくれないのが少し寂しい。
ちくりと眉間が痛む。
「……お前は私を馬鹿にしているのか?」
「ちょっ……と、ちょっと!! 空気を和ませようとしてるんですよ私はっ!!」
作品名:死に損いの咲かせた花は 作家名:葵悠希