死に損いの咲かせた花は
「そう言ってくださるのは嬉しいですが、あんまり期待しない方がいいと思いますよ」
左門の言葉に首をかしげた力丸が、再び木の根っこに蹴躓き、今度は盛大に転んだ。
連れ立って屋敷に戻り、取ってきた薪を片付けて。
力丸に引っ張られるまま左門が辿り着いたのは、小姓たちの控えの間だった。
「ダメっ!!」
力丸によく似た小姓が落とした雷に、力丸がびくりと肩をすくめた。
今まさに目の前で鬼の角を生やしている少年は、なんでも力丸の兄弟だという。しかし彼は乱丸ではなく、すぐ上の兄だそうだ。
「でも、坊丸兄上――」
「でも兄上、じゃない! 一体何を考えているんだお前は!!」
叱られて不満顔の力丸の一方で、彼のすぐ隣に座らされた左門はこっそり溜息をついた。叱られるのは当たり前だ。
疲れた顔の左門など目もくれず、兄弟の喧嘩は続く。
「なんで? そんなに怒鳴らなくたっていいじゃないですか。桜は私の恩人です、腕だって確かです! 乱丸兄上に会ってもらうくらい、どうしていけないんですか!?」
「兄上がお忙しいのは分かってるだろうが! お前も子供じゃあるまいし、思い突きで聞き訳のないことを言うんじゃない!!」
「なんだよ、坊丸兄上はそうやっていつもいつも私のことを子供扱いするんだから! この分からず屋! 小姑!!」
「こじゅ……っ!?」
言い争いの程度がだんだん低くなってきて、左門はあくびを噛み殺した。
反対されるのは当然だ。名もない師についたとあっては武家としての体面も立たず、しかも五男とは言え森家の男児が、どこの馬の骨とも知れない下男に武術を教わるなどもっての外だと考えるのも、当たり前。
この条件で自分の立場を引き上げるなら、と左門はいまだ言い合いをやめない二人を見る。ここは黙って、彼らにはもう少し騒いでもらった方がいい。
「ご飯とおかずと吸い物は順番に食べなさいとか、夜遅くには甘いものを食ちゃだめとか、そういうことばっかりいちいちうるさいんですよ坊丸兄上は!!」
「何だと!? お前はそうやって馬鹿にするけどな、健やかな精神は健やかな肉体に宿るんだぞ! お前のことを思えばこその忠告じゃないか!!」
「だってお腹がすくんだもん!」
――喧嘩の内容はともかく。
騒ぎを聞きつければ、きっと誰かが姿を現すだろう。乱丸の弟であるこの二人を止めるのに、おそらく立場の低い者ではそれが務まらない。
と、なれば。
「とにかく、私は思いつきや、ましてや気まぐれで物言ってんじゃないですから!」
力丸の声の影に廊下をわたる足音を聞きつけて、左門は息を吸った。
「桜はなんとしても乱丸兄上に――」
「そう我侭を言うもんじゃありませんよ、坊ちゃん」
訪れた人の気配が、障子をはさんだ向こう側に留まるのを気配だけで感じる。
「先生……でも、だって坊丸兄上が……」
「無理に望みを押し通そうとするのは、あんまりいいことじゃありませんよ。まずはお兄様のお話をちゃんと聞いて、それから色々なことを考えなさい」
障子の枠に指先が触れる、聞こえないほど微かな音。
兄弟は気付いていない。左門も、その気配に気付いていてはいけなかった。
木のすべる静かな音と共に障子が開く。
それに驚いた風の兄弟と一緒に、左門も驚いたそぶりで部屋に現れた人物に目をやった。
「何を騒いでいるのかと思ったら……」
現れた青年は整った面立ちをしていて、兄弟の顔を見ると頬を緩ませた。
次いで左門を見た青年は、会釈するように微笑む。
礼で返し左門が視線を部屋に戻すと、とても驚いた風の坊丸と、表情を思いきり輝かせた力丸の姿があった。どうやら、この青年が話題の森乱丸らしい。
「お前たち、喧嘩は……まぁするのはいいが、他人を巻き込むんじゃないよ。みんな忙しいんだから」
乱丸らしい青年は構えのない動作で部屋に入ると、いまだ睨み合ったままの二人の頭をなでた。
「兄上……だって、その、力丸が――」
「乱丸兄上! 彼は桜と言います! 戦の心得があるようなので、兵法などをぜひ彼に習いたいのです! だめですか!?」
「こっ、こら力丸!!」
「桜? ……君が?」
乱丸に問われ、左門は居住まいを正すと軽く頭を下げて頷いた。
「……さきほどは力丸様に対し、差し出がましいことを申しました。ご無礼をどうぞお許し下さい」
仕草の一つ一つを値踏みする、乱丸の視線――左門はこれを待っていたのだ。
ある程度腕の立つ者であれば、左門がどの程度の人間か気付く。そうして気付いた権力者の関心を得て、引き上げさせる。“下男の桜”が力丸の側近の立場を得るには、その方法しかない。
「君が力丸を? ふぅん……」
乱丸は顎に手をやると、しばらく考えるように左門を見詰めていた。
と、再び廊下から床板のきしむ音が聞こえて、左門は視線をそちらに向けた。
乱丸も気付いたらしく、首をめぐらせる。その様子を不思議に思ったらしい兄弟も、つられるようにして開かれた障子の方を向いた。
廊下にさした影に、左門の背筋に悪寒が走った。
もしや、と思った途端に体が震えだす。誰にも気付かれないほど細かな、しかし確実に自分を支配している痺れに、左門は唾を飲み込んだ。
忘れるはずがない。
まさに血で血を洗う殺戮の中、左門の恋人が攫われた。敵にとって脅威だった左門たちの攻撃を止めるために。
当時の敵将は、左門たちの首を引き換えに彼女の身柄を返すと言ってきた。しかし戦での価値は彼女にはない。だから、左門たちは一度彼女を見捨てた。左門たちは勝たなければならず、そのために生き残るべきは、彼女でなく左門たちの方だったから。
そしてその現実に耐え切れず、左門は彼女を救いに単身敵軍へと潜入した。
忘れるはずがない、忘れられる訳がなかった。
だめだ、堪えろと思うのに、腹の底からふつふつと湧きあがる殺意が鎮まらない。唇をひき結び、息を止めてようやく、左門はなんでもないような顔を作る。
「騒がしいな。何をしている?」
低く響く声を耳が拾った瞬間に、左門は目の前が真っ赤に染まった。
乱丸が訝しげにこちらを見ている。それに気付いているのに、自制できない。
平伏しなければ、皆に怪しまれる。
頭では納得している。自分は信長を生かせというこの依頼を、自分の意思で受けたのだ。この男は今の世に必要な存在だと。そしてそのために、左門はこの屋敷に忍び込んだ。
深く息を吸い、長く時間をかけてそれを吐き出す。そうしながら、左門はゆっくりと頭を下げた。
今、左門の前に、織田信長がいる。
作品名:死に損いの咲かせた花は 作家名:葵悠希