死に損いの咲かせた花は
【一】
群雄割拠の戦国時代といえど、生まれた土地には有利不利があり、年月が経てば成長も衰えもする。その点では、国の中心に領土を持つ武家に嫡男として生まれ、ちょうど幕府の権威が衰えた頃に頭角を現した織田信長という武将は、非常に運が良かったと言えるだろう。
圧倒的不利な状況での合戦において、信長自身の才気も手伝い、周囲の予想を裏切る形での勝利を得た。そうした武将としての高い能力を持つ一方で、彼は幕府という大きな力を持つ存在を押さえるなど、優れた政治的手腕も発揮している。
戦乱の申し子とも言えるほどの活躍を見せる信長と、彼の率いる織田勢。
おおよそ負け知らずの男だが、しかし宗教派閥との争いには手を焼いたらしい。
生活基盤を、あるいは武将としての矜持を背負っての戦いとは違い、それぞれが己の中に持つ絶対的な存在への献身としての戦いには、引き際というものが無い。また武将同士の合戦とは作法が異なるせいで相手の手の内が読めず、さすがの織田勢も苦戦を強いられた。現に信長の次男、信雄は、修験道と深いつながりを持つがゆえに敵対した伊賀との合戦で、手酷く痛めつけられている。
しかし伊賀での敗戦の翌年――昨年の秋、天正九年九月。信長率いる織田勢は、二度目の伊賀攻略にて勝利した。
これで、尾張を中心に拡大する一方の彼らを押し止めるものは、もう何も見当たらない。
今や天下は、国の中枢を支配した信長の手にわたるものという見方が、そのほとんどを占めていた。
ぱん、と気持ちのいい音を立てて洗濯物の皺が伸びた。
空は青く、透きとおる陽射しが眩しい。わいわいがやがやと妙に活気のある水回りでは、たぶんどこぞから入り込んだ猫が魚に手を出したのだろう、盆がひっくり返る音に続いて、下女の怒声が聞こえてきた。朝っぱらからご苦労なことだ。
「……にしても、暑いなー」
最後の洗濯物を干し終えて、盥に入っていた水を適当に庭へまき、前掛けで両手をぬぐった。たすきはそのままに、空になった盥を壁へ立てかける。
「次は薪割り、と」
誰に言うでもなく呟いた左門は、腕を伸ばすと胸を反らし、ぐっと伸びをした。
「桜? さくらーっ!」
そばにあった鉈に手を伸ばしたところを呼ばれ、左門は振り返る。
「はいはい、何でしょうか?」
「これから薪割りでしょう? ついでに裏山に柴刈りに行ってきてちょうだい」
壁からひょいと顔だけ覗かせた下女は、言うだけ言ってそのまま台所へ引っ込んでしまった。下男として雇われたばかりの左門には、基本的に拒否権は無いのだ。
「……“ついで”って距離かよ」
溜息のような呟きは、誰に聞き咎められることもなく空に消える。
“桜”とは、左門が正体を隠して任務に臨む時に使う仮の名前だ。そしてここは安土にある、織田信長の屋敷。
信長の家臣から信長の身辺警護を依頼され、左門がこの屋敷に入り込んでから、そろそろ十日が過ぎようとしていた。
紀伊の山奥。
左門らが暮らす小さな庵に二人連れの武士が尋ねてきたのは、もう一月ほど前のことだ。
一人はそれなりに腕の立つようで、上背もあり、腕力もありそうな男だ。そしてもう一人は背が低く、頬骨の張った顔をしていた。発音に酷い訛りがあり、妙に粘着質な圧力を湛えた眼が妙に印象的な男。
「名は何と?」
来客だと師に呼ばれ、兄弟と揃って並ばされた席で、小柄な男は師にそう問いかけた。
「左を上田右近、右を、上田左門と申します」
「双子か。同じ顔だなぁ。さて“上田”とは……虹亮殿の弟御かい?」
「いえ。弟子入りの際、名を改めさせました」
ほう、と納得したような溜息のような息をつく。
男は笑うと、ちらりと兄弟を見、次いで左門に焦点を定めた。
「左門殿」
「はい」
「そなたに頼みがあるのよ」
左門が何と応える間もなく、男のその言葉を合図にして、師と兄弟は一礼の後席を立った。
男の依頼は、信長の護衛だった。
しかし妙なことに、男は左門が彼の依頼で動くのだということを、他人に知れてはならないと言う。その不可解な注文を訝って男に素性を尋ねれば、男は信長の家臣だとしか答えない。
道理の無い頼みは受けないと告げたら、男は一瞬驚いたような表情をした。しかしすぐに微笑むと、我が君が心配なのだ、と言った。もう必要が無いほど信長には護衛があるが、ただ心配で仕方がないのだと。
呟くように言った男が一体何を考えているのか、左門にはよく分からなかった。ただ、そう言うのならばそうなのだろうと思い、だったらなおさら、この仕事を左門に頼むのは不自然だ。
先の伊賀攻めのこともあって、信長を恨む伊賀の者は多い。そしてこの庵に住んでいるのが伊賀の者だと、この男が知らされなかったはずはないのに。
「えーっと、ここら辺でいいか」
思考の淵に沈みながらも、左門の体は着々と下男の仕事をこなしていく。
男が言った通り、すでに屋敷には人が溢れていた。下人から武士までと範囲は幅広く、信長の世話に携わる人間も多い。出入りの商人を加えれば、それこそ数え切れないだろう。
言い換えれば、今一人や二人余分が増えたところで、おそらく誰もそれに気付かない――現に左門は、そうやって屋敷に潜りこんだのだから。
外に対する警戒のために割けるだけの人手は、もう十分に確保した。あとは内側に紛れ込んだ敵に寝首をかかれないよう、注意することが必要だと、あの男は判断したのだろう。家臣に裏切られた君主の例など腐るほどある。
ならば下男ではなく、左門はもっと信長に近い立場を得る必要があった。
ふと我に返り――現状に気付き誤魔化すように軽く鉈を振る。
「……やべ」
思わず小さな溜息が出た。手を動かしながらの考え事は非常にはかどったが、はかどりすぎて目の前の現実を見てなかったことに気付き、左門は頭をかく。
目の前には、薪でできた小さな山。これどうやって持って帰ろう。
「捨てていくか。あー……もったいないな」
無意味に作ってしまった小山に手を伸ばし、燃料になるはずだった枯れ木たちとの名残を惜しむ。
不意に左門は手を止めると、肩越しに振り返った。
何かいる。
足音が二つ。一人と、その者がどうやら動物を連れているらしい。足音の調子が、一方は人間のものではなかった。人通りが珍しい場所でもないから猟師かもしれない。
そんなことを考えながら草むらを眺めていると、木の葉がさざめいた。
「こら梅子! そっち行っちゃダメ!!」
ぽーん、と茶色の小さな毛玉が左門の懐に飛びこんでくる。
あ、と思う間もなく受け止めて、左門は毛玉の正体を確かめた。
ふわふわと柔らかな毛玉は、丸い小さな目でびっくりしたように左門を見返し、半開きの口から赤い舌を覗かせていた。子犬だ。
「梅子? うめこーっ! どこー!?」
向こう側から聞こえてくる呼びかけに、子犬が甲高い声で応える。ひょいと持ち上げて腹を見れば立派に男の印がついていて、左門はつい首をかしげた。雄なのに、梅子。
「梅子、そこにいる、の……?」
声に続くようにして、遠慮のない音を立てて枝がしなる。語尾が小さくなったのは、思いがけず左門と目が合ったからだろう。
作品名:死に損いの咲かせた花は 作家名:葵悠希