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死に損いの咲かせた花は

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 鍔が擦れ会う嫌な音が、刀を握るてのひらに振動となって伝わる。
「とんだ笑い話よ。皆が血眼になって求める天下の価値なんぞ、その程度のものでしかないのだ」
「だからって、そんな――」
「お前にはわからん!!」
 刀を思い切り弾かれて、左門は歯を食いしばった。
「己の人生を賭けて求めてきたものの価値が屑同然だと知った瞬間の絶望など、お前には分かるまい。犠牲にしたものの重みに押しつぶされる苦しさを、お前はまだ知らん」
 左門の腹の底が燻るように熱くなる。息をのみそうになって、冷静になれと自分に言い聞かせながら左門は深く息を吐いた。
 犠牲にしたものの重みなど、左門だって何度も味わってきた。幾度となく背負わされたのだ。それを。
「……怖気づいたんですか、信長公」
 恨めしい思いがまた、ふつふつと信長に対して湧きあがってくる。あんなにも惨状を繰り返しておいて、戦で数え切れないほどの命を奪っておいて、今更この男はそんなことを言うのか。
「犠牲が重いのは当たり前でしょう? それを今更になって耐えられない、苦しいだなんて……そんな中途半端な覚悟で、あなたはそこら中で戦を起こしてきたんですか!?」
「お前まだ知らんのだ」
「背負う苦しみなど私とて知っています! あなたは私がこうしてここにいるのに、一体どれだけのものを背負っていると――」
「お前にはわからん!!」
 けれど信長は、左門の声を掻き消すような怒号を吐く。
「……背負いきれぬ苦しみはあろうと、お前にとってこれまでの人生はいまだ、いずれ繋がる希望への道筋なのだろう」
 そして気迫とは逆に、静かな声で信長は言った。
 腹の底にたまる熱は、じりじりと左門の中で燻る。それは、単なる信長の我侭ではないのか。
「……あと少しじゃないですか。あと少しなのに、どうして……」
 あと少し信長が堪えれば、乱世は平定されるだろう。そうして出来る平安な世の中の存在で、きっと椿の死も決して無駄ではなかったのだと、左門は思える。だってそのために左門は、これまで様々なことに耐えてきたのだから。
「……儂はもう、疲れたのだ」
 信長の言葉に目の前が真っ赤になって、左門は信長の手から刀を弾き飛ばそうと、刀を振り上げた。
 左門と信長の能力差がさほどないこの現状は、圧倒的に左門にとって不利な状況だ。いっそ殺してしまえれば簡単なのに、と悔しさに歯を食いしばる。
 しかし左門はどうあっても、信長を殺すわけにはいかない。
「疲れたからって、大層なもの人に押し付けて、面倒ごとはもう知りませんって? 馬鹿言わないでください、今あなたが死んだらこの乱世は――」
「お前は光秀が何を引き受けたと思うておる?」
 鍔がぶつかる。力のぶつけ合いは不得手だが、彌助とは違い信長であれば互角にはなるのだ。
「天下人に取って代わるに、主君を殺した不忠者には大儀もなく、誰もつき従わん。分かるか?」
 間近で見合う信長の目は闇のように黒く、その奥には炎のような光が見えた。
「光秀の首を獲った者が次の天下人よ!!」
 信長の声に、胸の奥が冷えた。
「これでお前が儂を殺さずにおく理由はなくなったな、桜。どうする? 仇を討つか? 膾にされても文句は言わんぞ」
 鍔を弾かれ、踵がわずかに下がる。どくりと、心臓が嫌な音を立てた。音が聞こえない。なのに、聞きたくない言葉ばかりが耳に入り込んでくる。
 刀が震える。左門の手が、目の前のこの男を、殺してやりたい、苦しめてやりたいと暴れる。
 信長のせいで。この男の勝手な願望のために、里はなくなった。椿は死んだ。どうしてこんな男が生き残った。どうして。
「儂を殺せ!」
 憎い。殺してやりたい――だが私たちは、何よりも清廉であれと。
 清廉でなければ、自分たちは。
「殺せ! 伊賀の死に損いが!!」
 信長の怒声に左門は目を見開いた。
 迷うな。躊躇うな。
 堂々と腕を開いた信長にめがけて、左門はまっすぐに刀を突き出した。

 ――一度の深呼吸が、ひどく大きな音になって広間に響く。
「……勝負あり、ですね」
 次いで、顛末をじっと眺めていた光秀の静かな声が響き、人の崩れ落ちる音が聞こえた。勢いよく振り返った乱丸の視界の先には、うつぶせに倒れた信長の姿があるはずだ。
「大殿……? 大殿!?」
「どうあろうと大殿を殺さないのは、あなたたちの矜持ですか? 桜殿」
 乱丸のうろたえた様子に構わず、光秀が左門に尋ねる。刀を納めた左門は目を閉じ、ゆっくりとそれを開いた。
「……はい」
 刀を持つ手に力がこもる。たった今光秀にそう答えた瞬間も、殺せたのにと未練がましく考える自分がいた。けれど――。
 目を伏せた左門の横顔に、光秀が微笑む。
「……そうだ。ときに桜殿、大殿を安全な場所に運んでもらえませんか?」
 まるでいいことでも思いついたような光秀の様子に、左門の肩から思いきり力が抜けた。
「この期に及んで大殿ですか……。あんなに自分の命を軽く見られて、それでも大切にできるなんて。あなた頭おかしいんじゃないですか?」
 左門の憎まれ口に、光秀は困ったように笑うと、乱丸に抱かれたまま気を失っている信長を見下ろす。
「私はわりと、一途な方なので」
「……はぁ?」
「恋とはそういうものでしょう? 相手のためなら、なんでもできる。自分は何にでもなれる……と」
 心得顔の光秀に左門は面食らい、それが面白くなくて左門は顔を背けた。
 光秀に頼まれなくても、最初から左門は信長をここから連れ出すつもりだった。どんな解釈だろうと、信長を生かせという依頼が無効になったわけではない。
 左門が黙って信長の体を背負うと、左門と光秀の遣り取りを呆然と眺めていた乱丸が我に返った。落さないよう鞘と帯で信長の体をくくる左門に、手伝うつもりなのか手を伸ばす。
 そうやって動いているうちに、周囲の音がだんだんと意識の中に戻ってきた。それに気付いてようやく自分が興奮していたことを自覚し、だんだんと頭が冷えてきたらしい自分の状態に安堵する。これなら逃げられる。
 煙でくもる視界も、焦げる匂いも、怒号の入り混じった喧騒も、すべての感覚が戻ってきた。あとは逃げるだけだ。
「乱丸殿はどうする?」
 聞かれて初めて気付いたように、乱丸は少し考える仕草をした。けれどすぐに目を伏せると、微かに微笑んで通路の方を見る。
「私は弟たちの様子を見てくる。誰かさんのおかげで、多少見られるようにはなったようだし」
「あぁそーですか。……明智殿、あなたは?」
「私? 私は……さて。謀反の首謀者らしく、崩れ落ちる本能寺を前に高笑いでもしていましょうか」
 言いながら笑った光秀が、早く行けと左門たちに仕草で脱出を促した。彌助もいるのだ。光秀は上手くここから逃げおおせるだろう。
 乱丸はわずかな逡巡のあと、光秀に向かい礼をして踵を返す。
 その後姿に、忘れていたことを思い出して、左門は口元を緩めた。ほんのちょっとしたことを褒めるだけで、これ以上ないほど嬉しそうにしていた素直な生徒に――直接言ってやれないのは残念だけれど。
「乱丸殿」
「ん?」
「会いに行くなら、力丸に。お前はいい教え子だったと、期待以上のことをしてくれたと伝えてください」
作品名:死に損いの咲かせた花は 作家名:葵悠希