死に損いの咲かせた花は
【六】
耳がきかない。鼻はとうに馬鹿になってしまった。目は、煙で辺りがかすんでいるものの、まるで見えないということはない。
できるだけ打ち合いの激しい場所を避けて、左門は走っていた。
それでも次々と敵に襲われる。一瞬、力丸は大丈夫だろうかという心配が頭をよぎるが、大丈夫だろうと左門はそれをすぐに忘れた。あの子は勘がいいから、きっとここよりもずっと敵の少ない場所を、自然に選んで進んでいるだろう。
脳天を狙って打たれる刀を、避ける。すれ違いざまに刀を薙ぎ払い、突き、時には蹴り飛ばして先に進む。相手が死んだのかそうでないのかも、左門には関係なかった。自分が先に進めればそれだけでいいのだ。
刀が折れる。斬った相手のものを奪い、代わりにして使う。そんなことをもう何度繰り返しただろう。
辺りを見回し、左門は守りがまるでない通路を見つけた。たしかあそこは奥の間へ続いているはずだが、どうして誰も通らないのだろう。
「……信長……?」
呟いた自分の声が聞こえる。この喧騒に慣れてきたのか、耳が音を拾うようになってきた。
特に迷うこともせず、左門は通路に向かう。通路は細く、ずいぶんと暗かった。だから誰も通らなかったのか、それとも敵は誰も、この道が奥へ続くものだと知らないのか。
前後に注意して、それでも足早に進むと、いきなりぽっかりと空いた穴のような広間に出た。
窓ひとつないその間は炎の光に慣れた目に薄暗く、わずかな灯籠がある程度で他には家具ひとつない。
「桜殿ですか?」
いきなり薄暗い闇の中から声をかけられ、左門は刀を構えた。目を凝らすと人影がいくつか浮かんでいることに気付く。
「随分と早かったですね」
「……明智殿……」
「光秀、こやつらはどこへでも忍び込むぞ。あの程度の通路は隠している内に入らん」
「信長公も……」
いくらか距離をおいて向かい合う、信長と光秀の姿が、薄闇に慣れた左門の目に映った。そして信長の側には、彌助の姿も。
「……なんとも、まぁ」
「言葉も無いか?」
「ええ」
悠然とした信長の様子につい力が抜けて、左門は溜息をついた。
この謀叛が、信長と光秀の両方の仕業だということは明らかだった。ただ理由は分からない。
しかしそんなものは、これからいくらでも聞き出せばいい。
とにかく左門は、信長を死なせるわけにはいかないのだ。
「……とにかく。謀叛は失敗にしてもらいます」
「させぬと言ったら?」
「是が非でも」
間をおかず踏み込んだ。
狙うのは光秀の首。左門は刀を振りかぶり、真っ直ぐに振り下ろす。
しかし左門の動きに沿うようにして、気配が動く。そうして向けられる殺気に、背筋に悪寒が走って左門は横に飛び退いた。
刀が振り下ろされたのは、一瞬前に左門がいた場所の、一歩先。あのまま進んでいたらおそらく脳天を割られていただろう。
刀の主を見上げ、舌打ちをしたいような気持ちで、左門は刀を握る手に力をこめる。
「彌助殿……」
異人はただ左門を見返していた。
左門には、彌助が何を考えているのか、どうしても分からない。
「いいのですか? 彌助殿。信長公が死んでも」
彌助は何も言わず、左門に向かって構える刀も下ろさない。かといって、振り上げもしなかった。左門の言うことは分かっているはずなのに、何の反応も無い。
「……あなたのような人間がどういう扱いを受けるのかは私も知っています。大抵が畜生と同じ扱いを受ける。そんな中、信長公はあなたをそうは扱わなかった。違いますか?」
彌助は口を開かない。目も、左門から逸らさない。
相手の攻撃をなんとか避けるが、勢いがつきすぎて堪えることもできず、左門の体が転がった。受身を取り、立ち上がる。しかし彌助の刀は止まらない。
無理矢理、鍔で受け止める。力比べになったら適わないのは分かっていた。すぐ繋げられる形で弾こうとするが、思うようにならない。押し負ける。
弾かれ、左門の肘が上がった。まるで獣のように彌助の刀が動く。このままでは胸を斬られる。間合いからして、受ければ致命傷は免れない。
目を逸らさないまま刃を食いしばった左門の視界に、彌助のそれとはまた別の刀身が差し込まれた。
「よせ彌助!!」
刀身の先を視線でたどると、見覚えのある青年の横顔が目に入る。青年はこちらを見ない。だが。
「……力丸は、ちゃんと仕事をこなせたみたいですね?」
「弟に余計なことを吹き込んだのは、やはりお前か」
「余計なことだったかな?」
窮地を免れ少し安心した左門の軽口に、しかし乱丸は眉を少しも動かさず、彌助を見詰めている。
「忌々しいが……正直助かった」
言葉を合図に、乱丸が彌助の刀を弾いた。
彌助の意識が乱丸に逸れた一瞬、左門は身を翻すと再び光秀に向かう。
彌助が左門に意識を戻す。
しかしそれを、乱丸が遮る。
今度こそ一直線に光秀を狙った左門の切っ先に、いきなり横から何かぶつけられて火花が散った。
刀が折れなかったのは、運が良かったと言っていい。今度は彌助のような殺気は無い。しかし圧倒的な覇気に体ごと押しつぶされそうで、左門は下腹に力をこめた。
「……どうしてあなたを助けるのに、私はあなたを倒さなければならないんですか?」
信長は口の端で笑い、刀の柄を握りなおす。
「儂の死に場所は儂が決める」
信長の刀が振り下ろされる。躊躇いのない太刀筋。
「……信長公、どうして今、ここで?」
重く圧迫感のある一撃を受け止めて、左門は軽く息を吐くと一気に距離を詰めた。わずかだが、動きは左門の方が速い。
「信長公、どうして今なんですか? あと少しで天下はあなたのものになる。皆が憧れる境地に立てるのに、今になってそれを捨てるんですか」
「天下など手に入れてしまえばそれだけよ。人がいれば戦は起こる。そうして連綿と続くのは、戦と統一の繰り返し。天下を取ったところで、そんなものはその中のひとつに過ぎん」
攻撃を受ける合間に、なんとか刀を返す。
相手は自分を殺せる。しかし自分は、相手を生かさなければならないのだ。
じくじくと、刀を持つ手が疼きだす。
「……ひとつに過ぎないから、何だって言うんですか?」
「桜、お前は武士の誉を何と思う?」
「そんなこと知りませんよ!」
刀を持つ手に力をこめて、左門は手の疼きを押し殺した。
信長は以前、何と言っただろう。武士の誉――信長は、戦場で死ぬことこそ本懐だと言っていた。死に際に無様を晒せばそれまでの栄光など何の意味もない、とも。
「……死に際の立派さが武士の誉ですか? だからってこんな謀叛、ちょっと派手なだけで立派でもなんでもないでしょう?」
「足利の将軍を知っているか?」
左門に向かって囁くように呟き、信長が刀を振りかぶる。
「ああ、あなたが河内へ追放した?」
「そう、足利の十五代目のことよ。幕府をあれが統べておったことも知っておろうな? あれが儂を恐れ、己が命のために嫡男を差し出してきたことも」
信長の剣撃を受け止めて、左門は至近距離で言葉を交わした。鍔迫り合いはもう力と力の勝負だ。
「嫡男はいわば将来の証。つまりあの男は、天下より己の命を、しかもただ生き延びたいがために儂に差し出したのだ。儂に恐れをなして」
作品名:死に損いの咲かせた花は 作家名:葵悠希