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死に損いの咲かせた花は

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【五】





 自分たちが覚えているものが一体何なのか、左門が最初に習ったのはそれだ。
 人を欺き、出し抜き、手段を選ばずに目的を達すること。必要であれば味方すら見捨て、また時には自分が見捨てられることも受け入れること。そして、そういう術を習い身につけるからこそ、誰よりも何よりも清廉であれと教わった。
 傷つくことはあった。体はもちろん、心を病むこともあった。頭上から降り注ぐ血に気が狂いそうになったことも、人を殺す恐怖に刀が握れなくなったことも、左門にはあったのだ。
 けれど帰れば、そこにはいつも椿がいた。
――左門。名前、呼んで?
 腕に抱きしめた椿が囁く。左門の胸に頭を預けて、頬をすり寄せるような仕草をして。
――こうしてる時に聞こえる左門の声が、一番好き。
 朝の日差しの中で幸せそうに笑う椿の、その滑らかな肌の感触が嬉しくて、左門はさらに腕に力をこめた。
――……ずっとこうしていられたらいいのに。
 腕の中でまどろんでいた椿の声が、少しかすれて聞こえる。そして、左門の剥き出しの腕に触れる肌の感触は、少しずつ冷えていった。
 けれどそれは、まだ左門の手の内にあった。大丈夫、まだ温められる。温めてやれる。
 しかし抱き寄せても、いくら抱きしめても、椿の体は冷たくなっていくばかりだった。
 ――どうして?
 かすれていただけだった椿の声が、涙のにじむそれに変わる。
哀しくて、辛くて、縋る物を求めるように左門は腕に力をこめる。必死になって慰める。泣くなよ。お前が喜ぶならまだいくらでも名前を呼んでやるから、だから。
――左門!
 まるで大きな毬が手元から転がるようだった。
 急に軽くなった手の中には、裸に剥かれ傷だらけになった彼女の体。けれど見慣れた曲線は間違いなく椿のもので、ただ首から上だけがそこにはない。
 椿の声が聞こえる。
 楽しげな声。愛しげに左門の名を呼ぶそれや、偶に聞かせる、拗ねて甘えたような声音。そしてその影にこだまするのは、切り裂かれるような痛みを伴った、彼女の悲鳴。
 耳の中で、椿が左門の名前を呼ぶ。何度も。数え切れないほどに。



「桜お兄ちゃん!」
 小さな子供に、そう呼ばれたことがあった。小さな村に住む女の子で、弟と一緒にあちこちで物売りをして日銭を稼いでいた孤児の姉弟。
 愛嬌たっぷりの笑顔で大人たちに可愛がられていた子供たちは、その健気さも手伝ってか、村のいたるところでずいぶんと贔屓にされていた。さらにその子供たちはそこの領主の屋敷で働く下人たちとも仲が良く――そして左門はちょうど、その土地の領主を暗殺する任務を請け負っていたので。
「桜お兄ちゃん! 三太が、三太が……っ!」
 大人たちに弄りものにされ、ぼろぼろになって横たわる弟に、その女の子は大声で泣き喚いた。呼吸もままならないほどの慟哭に胸を締め付けられ、左門はその小さな背中を撫でる。
 その前日、領主の屋敷で出された夕餉に出た魚に毒が盛られており、その大名は急死した。その魚を売ったのは姉弟の弟であり、どうやら暗殺らしいその手口が一体誰の差し金か追及しようと、弟は拷問にかけられたのだ。
「……さく、ら……にいちゃ……」
「喋らなくていいよ、三太。喉は渇いてない?」
 横たえた子供の体に薬を塗りながら、熱に浮かされ意識がぼんやりとした子供の耳元に囁く。傷はあちこちが膿んでしまっていて、もう助からないかもしれなかった。
「ねぇ、ちゃ……にぃ……」
「ん?」
「……いたいよぉ……いたい……」
「三太! 三太、死んじゃやだ! やだよぉ!!」
 顔をぼろぼろにして泣き叫ぶ姉に、苦しいのだろう静かに涙を零す弟。
 左門の口からはただ、可哀想にと、それだけの言葉しか出てこない。できるだけ手を尽くして看病をしながら、左門は胸の奥で申し訳なかったと詫びる。
 弟の売った魚に毒を盛ったのは、左門だった。
 そもそも今回の任務は、この村の長から依頼されたものだ。
 領主のあまりの悪政に、大名へ相談を持ちかけるも、村の声は何も届かない。そこで業を煮やした村人たちが、村長に左門の話を持ちかけたらしい。
 元より国許に見放された土地だった。無能な領主がいなくなれば、村人は、少なくとも昔よりは恵まれた生活を営むのだろう。だからこそ、左門はこの依頼を請け負ったのだから。
 子供の呼吸がだんだんとか細くなっていく。熱かった手が痙攣しはじめて、いよいよ駄目だろうと左門は布に水をふくませた。それを口元に寄せてやり、唇を濡らしてやる。
「にぃちゃ……」
 ほろほろと静かに滴を零し、寝転んだまま自分を見上げる子供の目。それが不意に緩んで、笑みのような形を作った。
 その視線に、胸に痛みが走って左門は息を呑む。目の前の光景に何か考えそうになって、しかし今は駄目だと左門はそれを追い払った。痛覚も正義感も必要ないのだ。少なくとも、今は。
 それが左門の生きている世界なのだから。



 ――乱暴に壁を叩く音で、左門は目を覚ました。
「先生、ここですか!? 先生!!」
 それに続けて、力丸の悲鳴のような呼び声が聞こえる。言葉のわりに自信を持った呼びかけを不思議に思うと、子犬の鳴き声と戸を引っかく音が聞こえた。梅子もそこにいるらしい。
 ここだ、と答えようとして、猿轡を噛まされていることに気付き、焦る。外そうにも両手が縛られていて、思うようにならない。くぐもった声しかでない。
 だが縛られてはいるものの、脚だけはなんとか動かせる。左門は肩と膝で這うようにして戸ににじり寄った。
「先生ってば!! ……何も聞こえないよ。梅子、本当にここ?」
 力丸の弱りきった声に、先ほどまでやかましかった爪の音が止んでしまった。このままと二人とも行ってしまう。急がないと。
 やっとのことで戸までたどり着くと、左門は壁伝いに立ち上がった。体を壁にぶつけてできるだけ大きな音を立てる。肩が痛い。しかし構ってはいられない。
 二度目。力丸は気付かない。しかし梅子が戸を引っかく音はふたたび聞こえ始めた。だったらなぜ、力丸は左門の立てる音に気付かないのだろう。
 三度目。痛みに声がもれる。
「せ……先生!? 先生、そこにいるんですか!? ちょっと離れててください、今開けます!!」
 驚いてひっくり返った力丸の声が聞こえた。
ほっとして思わず溜息がでる。すぐに気を取り直し、左門は戸のそばを離れた。
 何度かの衝撃。
 木の軋む音が次第に派手になり、爆ぜるような衝撃と共に戸が破られた。
 目隠しのように飛び散った木っ端の向こう側には、掛矢を担いだ力丸が真っ赤な顔をして立っていた。そして足元にはすでにこちらに駈け寄ってきている、梅子の姿。
「先生! 大丈夫ですか!?」
 開けた穴から飛び込んできた力丸は、慌てて左門の猿轡を外した。
「一体誰に、なんでこんな……!?」
 呼吸が楽になる。同時に肩の痛みも多少楽になって、左門は戸の向こう側に目を遣った。外はひどく騒がしい。だから力丸は左門に気付かなかったのか。
「な……何が、あった……っ?」
 手首、足首と拘束を解く力丸に、荒い息を整えながら話しかける。焦げる臭いが左門の鼻をかすめた。まさか。
「……謀叛か」
「え?」
作品名:死に損いの咲かせた花は 作家名:葵悠希