その腕につつまれて
「……まったく、あいつもさっさと迎えにきたらいいのに」
「だから連絡してやるって言ってるだろ」
「そうじゃなくて、自分でここに来なくちゃ意味ないんだって。大体、居場所くらい分からないんじゃ、恋人失格なんだよっ」
むくりと顔をあげ、拳をつくって勢いよくテーブルを叩く捺に、
「はいはい、そうだよね」
と、橘はあっさりと切り返す。
「何、その心の入ってない返事は。あー、なんで海斗君はこんな冷血男が好きなんだろ。今からでも遅くないから、考え直した方がいいよ」
「あ、あの」
「そこ、海斗に矛先を向けるんじゃない」
電車の時間大丈夫なのかと、橘が海斗に助け舟を出してくれる。まだ余裕があったが、明日提出のレポートの残りもあるので言葉に甘えさせてもらう事にした。
まだ何か語りたそうな捺に後ろ髪を引かれつつ、ミスルトを後にする。けれど、肝心のレポートに必要な参考資料を店に一冊忘れたと気づいたのは、駅の改札を潜る直前だった。
(まだ、橘さん達いるよね)
戻ったらまた捕まるかもしれないが、その時はその時だと思いつつ、静かにそっと裏口のドアを少しだけ開ける。今回は窓際にあるテーブル席で話しているのもあり、二人とも海斗に気づいた気配はなかった。声を掛けようとした時、橘の一言に思わず動きが止まってしまう。
「海斗は海斗だよ。陸也君にはなれない」
ほんの僅かに寂しさを含んだものに胸が騒ぐ。……いったい、二人は何を話しているのだろうか。
「だったら、なんであの絵ずっと飾ってるんだよ。それって、まだ陸也君の事が好きだからなんじゃないの?」
「もう昔の事だろ。それにあの絵はすごく大事なんだよ、俺にとって」
「だったら、自分の部屋にでも飾ればいいだろ。休憩室じゃなくてさ」
「あれはここじゃないと意味がないんだ。それよりお前、ビール一杯くらいで酔うんじゃない。絡み酒の介抱なんてしたくないぞ」
橘の呆れた声。海斗は強張る手をどうにか動かし、さっきよりも音がしないように慎重にドアを閉める。そのまましゃがみこみそうになるのをどうにか抑え、急いで駅へ向かった。頭の中でさっきの会話で聞いた内容が反芻され、軽い目眩を起こす。
(僕が陸也にはなれない……? それに……)
あの絵とは、もしかしたら水彩画の魚の事だろうか。
店内はいくつかの絵が飾られているが、二ヶ月に一度定期的に入れ替えられる。春には春のイメージの絵を、夏には夏のイメージを。だから、変わっていないものがあるとしたらスタッフルームのものしか海斗には思いつかなかった。
「なんだ、僕の思い違いじゃなかったんだ……」
以前、橘に問いかけたかったもの。
誰にでも手を差し伸べるのではなく、自分に手を伸ばしてくれたのは弟にそっくりだったからですか……と。
でも、性格まで完璧にコピーなんて出来ない。
やっぱり必要とされるのはいつだって陸也であって、自分ではないのだ。
分かっていた事なのに、あまりにもあの腕の中が居心地良くて。ようやく居場所を見つけられたんだと、勝手に勘違いして甘えてしまっていた。
橘が欲しかったのは、偽者じゃなくて本物。だから、いずれ二つの違いに気づいて嫌気を差すかもしれない。
手すりに掴まりながら、窓に映し出される姿を眺める。
同じ造りをしていても、結局イミテーションはイミテーションのままなのだ。
「風邪、大丈夫?」
陸也が訪れたのは、あの日からちょうど一週間後。
仮病を使い、大学もミスルトのバイトもずる休みしていた。何もやる気が起こらず、一日をただ過ぎゆくままに任せるなんて、海斗には初めての事だった。普段から真面目過ぎると判を押される自分には、大胆な行動かもしれない。
絵画展まで残り一週間となり、ひと段落着いた陸也が、お見舞いにとアイスクリームを手土産に持ってきてくれた。
「うん、ちょっと調子が悪かったから早めに治そうと思って」
「そっか。火曜にミスルトに行ったら、修二さんが休みだって教えてくれたんだよ。最近メールも出来なかったし、心配してたんだ。あ、修二さんからこれ」
鞄の中から出されたのは、銀色の魔法瓶だった。
「恋しくなる頃なんじゃないの?」
海斗は無理しなくていいからと座らせ、冷蔵庫にアイスを仕舞った後キッチンからカップを二つ取り出し、コーヒーを注いでいく。
ふわりと香るのは、海斗が好きでたまらない相手の匂い。
たった一週間。けれど、あの店で働き始めてからこんなにも長く橘に会えないなんてなかったから。恋しさで、胸が締め付けられてしまう。
「ねえ、何かあったよね? ……すごく泣きそうな顔してる」
「そんな顔……」
「してるんだよ。ねえ、ぼく達が双子だって分かってる? シンパシーなんて正直信じられない時もあるけど、海斗がすごく辛いと、ぼくにもちゃんと伝わってくるんだよ。最近ずっと調子悪かったよね」
誰よりも長い時間傍にいて、離れた今でもしっかりと繋がりを感じる。
陸也が掌を海斗の手の甲に重ねた。
「…前に椿さんの事で、海斗にすごく助けられたんだ。だから、今度はおれに頼ってよ」
「陸也…」
「海斗がこんなに落ち込むのって、修二さんが原因?」
陸也の問いかけにびくっと反応してしまい、触れている部分から動揺が相手にしっかり伝導してしまう。
「……」
「好きなんだよね、修二さんが」
まっすぐな瞳を向けられ、海斗はその視線をしっかりと受け止める。真剣に自分を救いたいという陸也の気持ちに応えようと心を決めて、海斗はそっと口を開いていった。
「最初は、憧れだったんだんだよ。ちゃんと自分の目標を持っているし、努力するのが当たり前なんだって姿勢がいいなって」
それが恋という感情に変化するのに、時間はかからなかった。自分でも気づかないうちに、ゆっくりと静かに熱は温度を上げ、気づいた頃には、簡単に冷めないくらいまでに熱くなっていた。
「あの場所もだけど、橘さんと居るとすごく落ち着いて、ここでは偽らなくていいんだって言われてるみたいでさ。大学に入ってからやっぱり無理していた部分もあったから、余計にそう感じたのかもしれないけど」
微苦笑を口元に滲ませれば、陸也がしゅんと項垂れた。
「…それって、ぼくのせいでもあるんだよね」
「陸也?」
辛そうに眉が顰められる。
「だって、家出たのって、大学との距離だけじゃないだろ? 本当はあそこに居たくなかったのかもって、ずっと思ってた……」
表情がみるみる曇っていく。うつむいた拍子にさらりと茶色の髪の毛が今にも泣き出しそうな顔を隠していった。
その瞬間、陸也も辛さを抱えていたんだと知る。
「大学が始まってから一ヶ月経って、休みの日に海斗が家に帰ってこなくても、忙しいからしょうがないって母さんはあっさり納得してた。なのに、ぼくは出来なかった。……なんとなくだけど、海斗はあそこが嫌いんだって分かったんだ」
僅かな逡巡の後、さっきの推論を素直に肯定する。誤魔化していてもしょうがない。だからといって、違う部分はきちんと訂正しなくてはいけなかった。
「…帰りたくなかったのは本当だけど、ちゃんとみんなの事は好きだよ。……ただ、ちょっと離れてみて考えたい事があったから」