その腕につつまれて
「考えたい事?」
「上手く説明できないんだけど、これからどうしたいか…かな。陸也は絵が好きで、ちゃんと目標に向かっているだろ。でも、僕には何もなかったんだ。好きな事もやりたい事もね」
だから、見ていて辛かった。
両親の期待を受け、それに応えている陸也が羨ましかった。
「正直、橘さんを見てて羨ましくなった時もあったよ。でも、そんな僕にあの人が教えてくれたんだ」
海斗の中にも、ちゃんと情熱があるんだと。
何かに打ち込める事に気づかせてくれたから、自分を一歩でも前進させられたんだと思う。今はまだおぼろげにしか描けないけれど、ちゃんと目標も見つけられた。
「だから、もう大丈夫。家にも帰るよ」
「だったら、修二さんにも会える?」
「…それは」
「あの人と何があったのは分からないけど、怖くてもちゃんと話し合わなかったら、絶対に後悔するんだからね」
ぼくと瑛一さんがそうだったようにと、過去に受けた胸の痛みを思い出したのか、陸也が苦い笑みを浮かべる。恋愛は人を臆病にして、傷つきたくなくて現実から目を逸らしてしまう時だってあるから。
だからといって、いつまでも目を背けたままでは何も解決しないんだと、うずくまっていた自分の手を陸也が掴んで立ち上がらせてくれた。
海斗の背中を押してくれた陸也が帰った後、空になったカップにコーヒーを注ぎなおす。
温かいぬくもりと香りがじわりと胸に沁み込んで、やがて視界が滲み出した。溢れるのは、彼への想い。
…──橘が好きだ。
たとえ自分を見てくれなくても、いずれはこちらを見てくれるかもしれない。
自覚した時より、一週間前より。ずっとずっと今の方が愛しさが増している。
会いたいという衝動に駆られ、どうしてこんなにも会わないでいられたんだろかと不思議にさえ思う。
不意にチャイムの音がし、陸也が忘れ物でもしたんだろうかと涙を手で拭き慌てて玄関に向かった。
「何か忘れ物でも……」
確認せずに開けると、今一番会いたくてたまらなかった相手の姿が目に飛び込んできた。
呆然とする海斗に橘が近づき、そのまま手を伸ばしてくる。一瞬の出来事に驚き、気づいた時には力強い腕の中に包み込まれていた。パタンとドアが閉まる音と、橘の安堵の吐息がやけに大きく聞こえる。
「…よかった」
「え…?」
どうしてここに橘がいるのだろうか。
今日は木曜日で定休日じゃないし、しかも夕方の七時といえば一番店の忙しい時間帯なのに……。
「あの、どうして…」
抱擁を解かれ、顔を覗き込まれる。どこか困った様に瞳の色が揺らいだが、次第にそれも落ち着きをみせ、やがて優しい光が淡く滲んでいく。
「陸也君に海斗が倒れて苦しんでるって聞いたんだ。高熱を出して動けないから、看病して欲しいって。だから、午後から臨時休業にしてきた」
「熱って…陸也が……?」
弟の少しばかり強引なお節介。けれど、どうしても怒る気にはなれなかった。
海斗はもう大丈夫だと返し、橘を部屋に招く。
ここはミスルトじゃなくて、海斗のプライベートな場所だ。始めはそこに橘がいる事をすぐに信じられなかったが、座って海斗の煎れるお茶を待っている姿に、じわじわと現実感が押し寄せてくる。
「……あの、お店休んじゃってすみません」
「いいよ。早めに治しておいた方がいいから」
橘に心配を掛けてしまった。海斗は罪悪感に苛まれながら、どう切り出せばいいのだろうかと一瞬言い澱む。それでも、今のまま橘の傍にいるのは辛すぎるから。
「あの…」
「……もし、俺と別れて欲しいなんて希望なら却下するよ」
「それって……」
今の意味を……どう解釈したらいいのだろうか。
困惑すれば、橘は海斗が忘れていった本を鞄から取り出し、そっとテーブルの上に置く。
結局、あの後レポートをする気になれず、未だに提出もしていない。それ以前に、すっかり本の存在を忘れていた事に今更ながら気がついた。
もしこの本を忘れていなければ、今もあの幸せに浸っていられたのだろうかと思い、結局は仮定でしかない未来を海斗はすぐに掻き消した。
起こってしまったものを塗り替えるなんて、無理だから。
海斗は橘の気持ちを知ってしまったし、そして……きっと橘も海斗がどうして休んだのかを察しているんだろう。
勝手な推測だけど、と橘が口を開く。
「あの日、俺と捺の話を聞いていたんじゃないのかな?」
「……」
無言は肯定を表すと誰かが言っていた様に、橘は海斗の態度から憶測が事実なんだと確信したのか、その後は続けずにただ返答を待っている。
訊きたかったのは自分だ。けれど……。
「……それで、僕が別れるって思ったんですね。でも、あんな事聞いたら、しょうがないじゃないですか。橘さんが今でも好きなのは陸也なんだ。いくら頑張っても、僕は陸也にはなれないし、代わりなんて……っ」
……違う。
本当に言いたいのも、伝えたいのも。こんな事じゃないのに。
胸の痛みがどんどん強くなる。やめようとしても、一度吐露した感情は歯止めが利かず、陸也にもらった勇気がみるみるうちに萎んでしまう。
想いが深ければ深い分だけ、不安の色も濃くなっていくんだと、海斗は初めて知った。
「……最初から期待するような態度なんて、とって欲しくなかった」
いつか自分だけを好きになってくれるというのは、結局甘い幻想なのだ。
次第に視界がぼやけていく。泣きたくないのに…弱い部分なんて曝け出したくないのに。
すぐに理性を取り戻そうとしても、昂った感情に気持ちが翻弄されて上手くいかない。
「俺がいつ、君を陸也君の代わりにした……?」
いつも温和な雰囲気を纏っている橘からは想像が出来ない程、その台詞には温度がなかった。
見つめられている眼差しは、怒気を含んでいるのに、その瞳は冷たささえ帯びている。
「でも大切なんですよね。あの絵だって……」
あの絵を愛しそうに見ているのを知っているから。橘がどんなに気に入っているのか、三ヶ月弱しか一緒にいない海斗にも伝わっていた。
「絵って…、ああ、あれか」
すぐに察した橘の口元に、微かな苦笑が滲む。さっきよりも熱を取り戻した眼差しに少しだけ安堵しながら、海斗はあの日の会話を思い出していた。
絵と同じで、橘にとってなくてはならないのが陸也の存在だとしたら……。
「あれは、俺に店を持つきっかけをくれたものだから。……そうか、そこしか聞いてなかったんだ」
「そこしかって…」
瞳の色が今度こそ、いつもの柔らかさを取り戻していった。
「きっかけをくれたのは、確かに陸也君だった。でも、今ずっと俺に頑張ろうって活力をくれるのは海斗なんだよ。本当は毎日だって来て欲しいんだけど、それじゃ君の生活を束縛する事になるから、これでも週二回に譲歩してるんだけど」
「橘さん…?」
「一番大事なのは君だよ」
その言葉が胸に浸透し、じわりと熱を与えていく。ゆっくりと、残っていた不安や焦燥感がその熱で氷解していく。
「…こんなに泣かせてごめんね」
頬に伝った滴を、橘が手を伸ばし指先で優しく拭ってくれる。