その腕につつまれて
「そろそろご飯食べようか」
いつの間にか傍に立っていた橘の手が、海斗の肩に優しく置かれる。
「さっきから、ずっとしてたから疲れたんじゃないかな」
「いえ、大丈夫です。それに花を触ってると落ち着くんですよね」
小さめの一輪挿しに添えられた淡く青い花。
ちょっとしたアクセントになるかもと思いついき、置いて良いかと頼んだのは海斗だった。
カフェを訪れる人の中には、一人でゆっくりとした時間を持ちたいと思う者も少なくなかった。そんな人たちの癒しに少しでもなってくれたらいいなと始めたものだったが、気づいてくれた客の中には毎週変わる花を楽しんでくれる者もいる。
それを知った時の嬉しさを思い出し、海斗は小さく微笑んだ。
「海斗君は、優しいな」
橘の眼差しが柔らかい。
軽く頭を撫でられ、時々されるスキンシップが嬉しくもあった。
なのに、なぜか今は素直に受け入れられない。心が乱されるのは、好きだと気づいてしまったから。ただの憧れの存在として認識していたのなら、この手のぬくもりを素直に享受して、絶対に切なさなんて抱かなかったのに。
「…そんな事ないです。それなら、橘さんの方が優しいですよ」
「俺が?」
「ここが好きだって気持ちだけで、経験者じゃないのに僕を雇ってくれたからです」
誰にでも、こんな風に手を差し伸べているのだろうか。それとも……。
「あの……」
一つ聞いてもいいだろうか。
けれど、肯定されるのが怖くて、海斗は慌てて話題をすり替える様に一枚の葉書をエプロンのポケットから取り出す。さっき陸也から渡された、宣伝用のものだった。
店の奥の壁に掛けられているコルクボード。
そこには、大小さまざまなポスターや葉書が所狭しと貼られている。とはいえ、橘や捺がレイアウトするので、雑多にはならず一枚一枚がきちんと見やすかった。
捺の知り合いや関係者には美術やデザインに携わっている者が多く、オープン当時からの客の中には有名なデザイナーもいる。以前その中の一人が店で宣伝をしてくれないかと、個展のポスターや葉書を置いていったのがきっかけらしく、それが今でも続いているみたいだった。
訪れた客が宣伝にと自ら貼っていくのもあれば、捺が頼まれて宣伝用にと貼る場合もある。
絵画展まで一ヶ月と少し。
弱音を吐かないと宣言していた陸也は、あれからずっと絵と向かい合っている。
ただ好きだという情熱に身を捧げられる弟と、何もない自分とを比較して、すぐに落ち込んで。羨望さの中に軽い嫉妬の色があるのを自覚しながら、海斗は未だ何の目標も持たない己を痒く感じる。
「これ、どこに貼ればいいんでしょうか?」
「ああ、預かっていたやつだね。ちょっと待って」
橘がいくつかの葉書を移動させ、宣伝用のスペースを空けてくれる。海斗はなるべく目立つ場所に葉書を貼りながら、橘にそろそろと問いかけた。
「陸也とはずいぶん親しそうなんで驚きました。知り合いだったんですね」
「昔ちょっとだけサラリーマンしていたって言っただろ。その時の会社でバイトしてたのが陸也君なんだ。まさか、二人が双子だなんてちょっと驚いたよ。他人の空似にしては、随分似過ぎているなと思ってたんだけど。でも、答えを知ったらあっさり納得がいったかな。本当に君達はそっくりなんだね」
「見た目だけですよ」
消極的な自分と積極的な陸也では、印象から違って見える事だってある。
けれど、橘は海斗の言い分をあっさりと却下した。
「それだけじゃないんだけどね。たとえば、何かに一生懸命取り組んでいる時の姿勢とか、好きなものに捧げる情熱とかあるだろ。多分見た目は陸也君の方が激しいけど、海斗君だって負けてない気がするけどな」
例えばと、さっき活けた花を指しながら、橘はにこりと微笑んだ。
「誰かを幸せにする為の努力を惜しまない。その為なら動くのも苦じゃないだろうし、君ならもっとこの店を居心地良いものにしてくれるんだろうなって考えてると、こっちも嬉しくなるんだ」
「幸せって、ただ僕は…」
「もちろん、好きでやってるのは充分知ってる。でも、起こしたリアクションに結果がついてくるのは当たり前なんだよ」
自分の中に、そんな激しさがあるのだろうか。
橘の言葉がすとんと胸に落ちる。
何をするにも冷めた考えしか浮かばなかった。もし、海斗に熱い熱情があるのだとしたら、その火種をくれたのは間違いなく橘だ。
(どうしよう…)
傾き続けている恋情を止められない。
「だから、いつの間にか目が離せなくなって、気がついたら君を探す自分がいたよ」
「…橘さん?」
鳶色の瞳に自分の姿が映し出される。透明なのに深いその色に魅入られてしまい動けない。少しかさついた指先が顎に添えられそっと掴まれたかと思うと、そのまま上を向かされる。
どきりと鼓動が跳ね、体が僅かに揺れたのが伝わったのか、近づいてきた唇をいったん止め橘が告白する。
「橘さ…ん」
本当にと…?と確かめる為の問いかけは柔らかいキスに蕩かされ消えていく。
触れるだけの短いキス。
逞しい腕に包み込まれ、すぐに二度目の口づけを仕掛けられた。ゆっくりと、次第に深く重なっていくキスにふわりとした酩酊感を覚えながら、海斗は橘の背中にそっと腕をまわしていった。
◇ ◇ ◇
「とうとう、シュウの毒牙にかかっちゃったんだね。つくづく、この男は見た目を裏切って手が早いんだって痛感したよ」
締め切り間近だというのにミスルトに居座っている捺が、海斗をぎゅっと抱きしめよしよしと頭を撫でてくる。
「人聞きの悪い事言うなよな。ちゃんと海斗は俺の事好きなんだから」
「はいはい、そうでしたね。自信ありまくりでムカつく答えをありがとう。でも、あんまり甘やかしたら駄目だよ。この男すぐに付け上がるから」
更に念押ししてくる捺に、どう返していいのか戸惑っていると、橘が憮然とした声を出す。
「お前ね。それ以上言ってみろ。すぐにここから追い出すからな。せっかく匿ってやってるのに、恩を仇で返すのなら高野君に連絡いれるぞ」
「あ、それだけはホントやめて。悪かったです、すいません」
本当にやりそうな橘に、捺はすぐさま謝る。
よほど高野という編集者が怖いんだろうと想像していると、それが顔に出ていたのか捺は苦笑しながら、スツールに座りなおした。
「ほとんどデザインは仕上がってるから安心してね。これでも、クライアントからは信用されてるんだし」
「性格は不真面目なのにな」
「…シュウはいちいちうるさいんだよ」
捺がへたりとテーブルに伏せる。店がクローズしてしばらくすると、捺が度々顔を出すのは以前からあったが、最近はその頻度が上がっているらしい。火曜と水曜がバイトの海斗も、ここ三週間はかならず顔を合わせている。
「じゃあ、なんで…」
「恋人と喧嘩中。いや、捺が一方的に拗ねているだけかな」
だから適当にあしらっていいと橘に言われ、海斗は少しだけ驚いた。
男にしては綺麗に整った顔や、すらりと均等のとれたバランスの良い容姿。黙っていると怜悧とすら思えるのに、喋ってみれば気さくなで愛嬌のある性格だと分かるので、人好きする捺に恋人がいても不思議じゃないはずだ。