その腕につつまれて
ほろりとした口どけとふわりとした優しい甘さに、ほっと体の力が和らいだ。
「仕事は仕事でも、ちゃんと楽しむ部分は楽しまないとな」
橘がにこりと笑む。
「分かってるよ」
捺がチョコレートを食べ、頑張ろうと自分に活を入れる。
何かに打ち込んでいる二人の姿が眩しかった。
ここに居たら、自分のしたい事が見つかるだろうか。
海斗は、二つ目のチョコレートに手を伸ばす。きっとこれも捺に対する橘なりの気遣いだ。
誰かを思う事の大切さを感じながら、さっきよりも甘く感じるチョコレートを、海斗はしっかり味わった。
大学の用事が思った以上に長引き、店に着いたのは四時少し前だった。
「すいませんっ」
「かまわないよ。それより…」
慌てて裏口から入れば、意外な相手と目が合う。
「やっぱり、ここだったんだね」
橘の声に聞きなれた声が被さる。カウンターの席に座り嬉しそうな表情を見せているのは、こないだ最近忙しくてなかなか会う機会がないと、メールを寄越したばかりの陸也だった。
「なんで…」
いるんだろうと続ければ、陸也は種明かしをする様に指を三本立てた。
猫、カフェ、気さくな店主。その三つだけで推理してみたんだと陸也が笑ってみせる。
「前に猫の話してたよね。その時は気づかなかったんだけど、後で考えてみたら、もしかして修二さんの店かもって。まあ、単純に全部当てはまる所で知ってるのが、ここだったんだよね。あと、久しぶりにこの人の顔でも見ようかなーってね」
軽く指で指された橘は、ただ苦笑している。
「…カフェの話って、バイトするきっかけになったってやつだよね」
「そうそう。人懐っこい猫ってカフェだよね。よくここに来てた時は、デッサンのモデルにさせてもらったっけ」
懐かしいなーと、テーブルに手をついて身を乗り出し厨房を覗き込んだ陸也の頭を、橘が軽く掌ではたく。危ないだろとやんわり注意する口調が砕けていて、嫌でも二人が知り合いだというのを実感した。
「いつもだったら、この時間に来てたんじゃなかったっけ?」
「最近は通う家が増えたみたいだから、ここに来るのは夜になってからだよ」
「なんだ。修二さん、カフェにあんまり大切にされてないんだ」
「その反対だよ。安らげる所は最後にするもんなんだ」
「なんか、ちょっと自惚れてる?」
「かもね」
顔も姿も似ている陸也と海斗を眺めながら、橘は少しも驚いた様子がない。それに、最初から海斗と陸也のやりとりを静観していたのだ。
(もしかして、最初から知ってた……?)
カフェの事も。橘を名前で呼ぶのも。陸也がこの店に親しく通っていたんだという事実が、海斗の胸に微かな痛みを残す。
「あの…、あまり時間がないので着替えてきます」
見ていたくない。
一瞬で生まれた強い感情に流されてしまう。
「そうだね。でも、ゆっくりして大丈夫だよ。今はこの子しかいないし」
陸也は一応客なんだけどと軽く言いながらも、あまり気にしていない態度に、ますます居た堪れない気持ちが膨れ上がっていく。
海斗はどうにか口元に笑みを貼り付け、そのまますぐに厨房の隣にある部屋に入ると、備え付けてあるラブソファーに力なく座った。ドア一枚を挟んで聞こえる二人のやり取りに胸が締め付けられる。
意識を紛らわそうと視線を彷徨わせると、橘が気に入っている一枚の絵が目に留まった。物置に使っていた部屋だったのを改装して、スタッフルーム兼休憩室にしているここには、彼の私物が持ち込まれることもあった。
この絵もその一つで。
青を基調とした水彩。描かれているのは抽象的な魚で、水の中で楽しげに遊んでいるみたいだと以前教えてくれた。
いつもより少しだけ時間をかけて着替えた後、海斗は絵をじっくり眺める。慈しみを滲ませた相手の瞳の先に映るものがあまりにも綺麗で、海斗もすぐさま絵に魅入られていく。大事な人と、同じ気持ちを共感する嬉しさや幸せはもちろん、自分もこの絵が一目で気に入った。
教えてくれたのは橘だ。
ここに来てもいいと、優しく手を差し伸べてくれたのも。ありのままの自分を出せる場所をくれたのも、全部…──彼だった。
コンタクトを外すと、鞄にしまっていた眼鏡を取り出す。
大学では素の部分を隠していたとしても、ここでなら隠さなくてもいいと……隠したくないと思ってしまった。
(……なんだ、こんなに簡単だったんだ)
橘には、ありのままの自分を見て欲しかったのだ。
ずっと疑問だったものがゆっくりと氷解し、やがてそれは確実に一つの形を成していく。
陸也と知り合いだったのがショックなのは、また比べられるかもしれないという不安があるから。同時に寂しさを覚えたのは、向けられる瞳の甘さが自分にだけじゃなかったという事実を知ってしまったから。きっと、海斗に声を掛けたのも、陸也だと勘違いしたからだろう。
陸也が悪いわけじゃない。自分が勝手に橘を好きになってしまっただけ。
……なのに、どうしてこんなにも不安になって、足元が揺らいでしまうのだろうか。
「行かなきゃ」
陸也に会えば、どことなくぎこちなくなってしまうかもしれないという不安はある。それでも、橘に迷惑を掛けられない。
軽く深呼吸した後厨房に戻ると、なるべく不自然にならないように明るく振舞う。
「足りない備品とか、今のうちにチェックしますね」
「慌てなくても大丈夫だからね。もう少しゆっくりしてもいいくらいなのに」
「いえ。ちゃんとバイト代貰ってる分は働かないと。でないと申し訳ないですよ」
ランチタイムが終わりディナータイム前になると、テーブルに置いてあるフードメニューカードを取り替える。その後にナプキンを補充しテーブルをしっかりと拭く。
人が多い時はタイミングを見計らいながら動くのだが、今はカウンターにいる陸也だけなので、海斗は慣れた手つきでこれからの準備をてきぱきとこなす。
「真面目でしっかりもの。弟のぼくが言うのもなんだけど、出来るお兄だよね」
海斗の仕事を見てみたかったんだと海斗は満足そうに話し、もう一つの目的でもある頼み事をした後、バイトに遅れるからと慌しく店を出ていった。
元気なのは相変わらずだと橘が零し、改めて陸也と過ごした時間があるのだと実感させられる。
陸也と入れ替わりに常連客の人がドアを開け、それをきっかけにいつもの馴染んだ時間が訪れた。海斗がオーダーを通すと軽く頷いて厨房へ戻っていく。
それからはあっという間だった。
七時になる頃には店が満席になり、八時の閉店時間まで海斗は接客をこなし、橘も手際よく料理を作っていく。今日のメインはパスタ料理が二種だが、夜になるとカフェというとよりもレストランに近い雰囲気がある。
昼間の明るい照明をオレンジに切り替え、テーブルにはローソクの入った半透明なポットが置かれ、穏やかな灯りにほっと一息つく者も多かった。
誰かとこの時間を共有するのもいいし、一人でゆっくり過ごすのもいい。
この時間に来る人達の中には、一日の疲れをここで癒す者も少なくなかった。
最後の客を見送ったのは八時を少し過ぎた頃で、夜の演出を手助けしてくれるポットを片付けた後は、いつも通りに明日の為にテーブルセッティングをする。