その腕につつまれて
「じゃあ、その愛を受け取ったから、そろそろいくよ。適当に過ごしててくれていいからね」
「うん、いってらっしゃいー」
陸也に送り出され、海斗はカフェに向かう。
歩きながら、じわりと胸がずきりと疼いた。
陸也の明るさに、前向きさに。ただただ羨望してしまう。
なりたいのになれない自分の理想が目の前にあって、それに少しでも近づくためにどうしたらいいのか、未だ方法が分からない。
「少しでも、変われたら…いいな」
橘や捺のいる、あの暖かな場所を思い出しながら、最初の一歩を踏み出そうと、海斗はそっと心に誓った。
◇ ◇ ◇
バイトに入ってから、あっという間に一ヶ月が過ぎ、接客の難しさと人と関わる楽しさを少しずつ覚え始めていくうちに、この場所にもっと居たいという思いが確実に育ってくる。
「その姿もすっかり馴染んだよねー。これからは一人でも大丈夫だって思うよ」
店が閉店した後、後片付けをしていた海斗に、捺が楽しげな笑みを向けた。
「そうでしょうか。でも、捺さんが居ないとまだ正直不安です」
洗い終わったスープカップを拭きながら、海斗は微苦笑を浮かべた。
「何言ってるの。いつまでもお母さんがいたら、子供は一人で飛び立てないんだからね。巣立ちの日は近いよ、うん」
捺は一人納得して、来週は客としてミスルトに来るなんて言う始末だった。そっと後ろから伸ばされた腕が腰に巻かれ、そのままぎゅっと抱きしめられる。
最初のうちはスキンシップの過剰さに慌て、その度に捺にからかわれていたが、今はどうにか気恥ずかしさを抑えられ、話を続けられるまでになっていた。
(でも、捺さんて気がついたら手伝ってくれてそうなんだよね)
甘えとかそういうのではなく、捺と一緒に仕事をしていて気づいたのだが、とにかくとても気が利くのだ。
友人同士の母親達。そして、そのうちの一人に手を引かれて入ってきたのは、幼稚園くらいの女の子だった。母親同士の集まりの中で、その子が退屈しないように、捺は店に置いてあるブックスタンドから一冊の絵本を取り出し、その子に手渡していた。
そろそろ読み終わるという時になると、次の本を持っていきまた渡す。
他にも二組の客がいたが、そちらにもさりげない動きでそれぞれのテーブルに目を配っていた。
「いつからお前は海斗君の母親になったんだ。それから、あんまりベタベタしてると作業できないだろ」
「もしかして、好みだから妬いてる?」
「確かに可愛いのは認める。でも、妬いてるんじゃなくて困ってるのを見兼ねたから口出すんだ」
微かに鼓動が走ってしまう。
ここに来てから、二人のやり取りに何度も翻弄されてしまい、その度にどう対処していいか困ってしまう事が度々あった。戸惑ってしまった海斗に対し、最終的に助け舟を出してくれるのは橘で、こんな風に軽く捺を諌めてくれる。
「はいはい」
あっさりと捺は海斗を解放し、改めて橘に意味ありげな瞳を向けた。
「ホント、…タイプの子には甘いんだから」
その言葉にどきりとする。本気の色を含んだものに、海斗は思わず橘を見つめた。
「あの、それって……」
橘は、まいったなと鳶色の瞳を微かに揺らした。けれどそれは一瞬の事で、すぐに穏やかさを取り戻す。
「俺の恋愛対象が男って言ったら、バイトやめる?」
少しだけ困った表情で告白してくる橘に、海斗は少し間を置いてから小さく頭を横に振る。知り合ってまだ一ヶ月くらいしか経っていない。それなのに、捺の言葉を冗談だと誤魔化さず、ちゃんと事実を教えてくれた事が素直に嬉しかった。
「やめません。それに、ここは僕にとってとっても居心地が良いんです。そんな場所を手放すなんて、今更無理です」
恋愛の趣向で辛い経験をしたのかもしれないと、なんとなく察する。
捺との掛け合いの中に、ほんの少し混ぜた本音。可愛いと言われたのは内心嬉しかったが、真に受けるほど自惚れてはいなかった。
「だって。良かったね、認めてもらえて。でも、やめるって言われたら正直僕も辛かったかも。実はそろそろ締め切りのやつが二つあるんだ。だから、どっちにしても来週は来られなくてさ」
一つは知り合いの結婚式の招待状。もう一つは企業の会社説明会で配布される、簡易のパンフレットらしい。
大きいものから小さいものまで。フリーで、しかも駆け出しだから仕事を選好みしてられないと、去年一年間は必死になって仕事をしていた捺も、自分のペースを掴み仕事もコンスタントに入ってくる様になってからは無茶な予定を組まなくなっていた。
それでも、知人の頼みは断れないみたいで、今回はその締め切りに四苦八苦している。
「一生に一度のものだから式自体を豪華にしたらしくて、招待状の方まで予算が割けませんでした。だから大学時代の友人である僕に声がかかったんだけど、これが意外と神経使うんだよねー」
橘の話題から、捺の仕事の悩み相談へと移っていく。
海斗の片付けも橘の明日の仕込みも終わった後は、大抵捺が淹れたコーヒーをゆっくりと味わう。
カウンターには捺と海斗。厨房にスツールを持ち込み、それに橘が座り向かい合うようにして話すのがいつのも流れだ。
「安請け合いするからだろ」
「それは、友達だからするんだよ」
橘の呆れた突っ込みに、捺があっさりと返す。
「だったら、そいつの為に頑張れよ。注文を聞いてるならデザインも考えやすいだろ」
「だから余計に不安なんだって。少しでも違っていたら悪いって思うし。海斗君も自分のイメージとかけ離れたら、やっぱり落ち込むよね」
二人のやり取りを聞いていたが、急に話を振られて一瞬言葉に詰まる。
悩んでいる捺に助言なんて出来ないとしても、海斗は思ったままの気持ちを率直に述べた。
「そうですね、自分の中ですでに決まっているものを作って欲しいって頼んで、それが違ったものになっていたら確かに落ち込むかもしれません。でも、曖昧に伝えていたんだとしたら、反対にどんなのが出来るのか楽しみになるんじゃないでしょうか」
「楽しみに?」
「自分が伝えたものが、どんな風になるのかってすごくドキドキするし、それを見れた時の嬉しさの方が勝ると思うんです」
自分なりの意見を告げた後、海斗は慌てて補足する。
「あ、でも。これは僕の考えですよ」
「そうだね。でも、心が軽くなったよ。やっぱり海斗君は誰かと違って優しいね」
手が伸びてきたかと思うと、頭を引き寄せられ胸に抱きこまれる。ぎゅっとされて、気恥ずかしいような、それでいてどこかくすぐったい気分になってくる。
「優しくなくて悪かったな。でも、確かにそうだって俺も思うよ」
橘は海斗に賛同した後、チョコレートの乗った小さなプレートを海斗と捺の前に置く。
「それに、自分の為に一生懸命努力してくれるんだし、その姿勢だけでも嬉しくなるね。…捺、海斗君が苦しくなる前に離してあげろよ」
「はいはい」
すぐにするりと腕が離れ、海斗はそっと橘に視線を送った。
「コーヒーに合うから、食べてみて」
少しずつ色の濃さが違うキューブ形のチョコレートが三つ。その中で、一番ミルクが多そうなものを最初に口にする。