その腕につつまれて
ケーキを食べ終わるのと橘が戻ってくるのがほぼ同時で、さっそく明日から来て欲しいと告げた後、さっきのケーキを土産に渡された。
「じゃあ、明日ね。慣れるまでは少し早めに来て欲しいんだけど、構わないかな」
「もちろんです。学校が終わったらすぐこっちに来ますから」
「昼も忙しいのに、夜も忙しくしてしまうね」
申し訳なさそうな苦笑に、海斗は慌てて首を横に振る。
「いいんですっ。僕の方こそ、やりたいって思ったし。でも、せっかく誘ってもらったのに期待に応えられなかったら……」
「気にしなくていいって言っても、君は気にするんだよね。でも、ゆっくり一つずつ覚えていったらいいから。最初はみんな初心者だよ」
橘が柔和に微笑む。励ましてもらえるのが嬉しくて、明日から頑張ろうと前向きな気持ちが強くなる。後ろ向きな性格は簡単に変えられないが、変えようとする一歩目は踏み出せそうな気がした。
橘と別れ、公園へと足を運ぶ。
日曜の午後。春ののどかさは薄れ、夏にむけて陽射しの強さが変化を遂げている。
本当はすぐに帰りたくなかったけれど、橘に迷惑をかけるわけにはいかない。
「やっぱりいないよね」
この幸福をもたらしてくれた縞猫に会いたかった。
もしかしたらと、淡い期待を抱きながら姿を探してみたが、あっさりと姿が見つかるわけもなく、海斗はミスルトで通称されている名前で小さく呼んでみる。
茂みの影に隠れていないだろうか。
それとも、どこかの家に通って可愛がってもらっているのだろうか。
今日会えないとしても、あの店で働くようになれば顔を合わせてくれるだろう。
もし、ここで降りなかったら。あの猫に出会わなかったら。考え出したらきりがない事を電車に揺られながらつらつらと思い浮かべる。偶然なのか必然なのか、今の結果に理由付けをしてしまう癖は相変わらず抜けそうになかった。
翌日。講義に身が入らないぐらいに浮き足立っているのか、海斗は朝から知り合いに、良い事でもあったのかと何度も聞かれ、その度に適当に誤魔化して愛想笑いを見せた。
陸也の性格に少しでも近づく為につけ始めたコンタクトと、本来の自分の趣味と少し違うファッション。
それだけで、表面上は明るく振舞えるのだから、マインドコントロールは、上手くできているのかもしれない。
誰かと深く関わるのは苦手だ。だから、必要以上の人間関係は作りたくないのに、弟が羨ましいなんて矛盾しすぎているんじゃないだろうかと、海斗は一人になった途端ほっとする自分に苦笑する。
必要とされたいのか、そうじゃないのか。
今まで陸也と比べられ、その度に一歩、二歩と陸也から距離を置いた。
もちろんそれに陸也が気づかない筈はなく、強引に海斗の手を引っ張って、隣に並ばせるのも多々あったのだが。
比べるのは、比べる方が悪い。
陸也はきっぱりとした性格から、自分達を公平に扱ってくれる相手には惜しみなく好意を見せたが、そうじゃない相手には見向きもしなかった。
時間があったので、海斗がミスルトに行く前に一度マンションに戻り着替えていると、来客を知らせるベルが鳴る。
昼過ぎにここを訪れる相手はもちろん決まっていて。
ドアを開けたそこには自分とよく似た、それでいて雰囲気はまったく正反対に近い陸也がにっこりと笑みを浮かべていた。手に持っていたケーキの箱を一度海斗に見せた後、嬉々としながら部屋に上がっていく。
「もしかして、これから出かける予定だった?」
玄関に置いていた鞄に気づいて、陸也が問いかける。
「うん、でもまだ時間あるから大丈夫だよ。実は、今日からバイト始めるんだ」
二人分のコーヒーをいれながら、昨日の経緯を簡単に話した。
見知らぬ駅で降りた事。
そこで出会ったカフェの店主が気さくだったのと、その彼と出会わせてくれた猫の存在を話すと、陸也の大きい瞳がきらっと好奇心旺盛に輝いた。
「じゃあその猫が導いてくれたんだ」
「忙しいんだったら、ここで休んだらいいって連れていかれたのかもね」
もしそうだったら、カフェの目に自分はどんな風に映っていたのだろうか。疲れた顔を見るに見かねてだったのなら、親切な猫だと感心するしかない。
「でも、なんか意外だよね。海斗がその場で即答するって」
陸也に言われるのも無理はない。普段なら、もっとじっくり検討してから決める性格を知られているだけに、陸也の疑問は至極最もだ。
海斗はコーヒーで唇を潤し、答えを待っている陸也に向かって素直な気持ちを述べる。
「あそこにもっと居たいって思ったから、かな」
橘や捺との会話やカフェに流れる緩やかな時間。
特に興味が湧いたのは橘の存在だった。
人と壁を作ってしまいがちな海斗に対し、橘はあっさりとそれを乗り越えてしまった。もし警戒心を持っていたとしても、橘の笑顔はそれを緩和させる力があるのかもしれない。
「そっか。それなら応援するよ。と、時間大丈夫?」
「これ食べ終わったら行くよ。せっかく陸也が買ってきてくれたんだから」
ほんのりと甘いチョコレートケーキを食べた後に、コーヒーでほっと一息つく。まだ少しだけならゆっくり出来る。
「あ、そうだ。今日はこれ渡したかったんだ。まだ先なんだけど、小さな画廊を二週間借り切って、サークルで絵画展やるんだよ」
手渡された葉書には何人かの名前が並べられていた。淡い風景画を加工したデザインを眺め、海斗は楽しげに笑む陸也がほんの少しだけ羨ましくなってしまう。比べたくなくても、自分と比べてしまうのをどうしても止められない。いつから、こんなに器量の狭い人間になってしまったのだろうか。
悟られたくなくて、海斗は明るい声を出す。
「すごいね。でも、画廊借りるのって高いんでしょ?」
「そこは僕が頑張ったんだよ。って言っても、瑛一さんに無理やり頼み込んだんだけどね」
海斗も何度か会っている、陸也の恋人。
椿瑛一はまだ三十になったばかりだというのに、すでに事業家として飛躍しており、今回使う画廊の手配をしてくれたのも、瑛一の配慮だったらしい。
けれど、恋人に甘いかと思えばその反対らしく、借りる条件として陸也は絵を三点出品する事になり、今から八月の展覧会まで三ヶ月弱の間、少しでも自分の中で納得できるものを仕上げるんだと、今から意気込みを見せていた。
「あの人、容赦ないから。だから、出来ないなんて弱音はいても仕方ないんだ」
恋人の名前に陸也の表情が甘くなる。
同性同士で恋愛感情が持てるのかと以前真剣に問われたが、あの時海斗は正直な想いをそのまま陸也に伝えた。
建前とか世間体とかはもちろん、常識の範囲内としてしっかりと持っていたいけれど、本人同士が好きだと想いあっているのであれば、他人が余計な口出しする事じゃない。綺麗事だと海斗自身重々承知していたが、弟が幸せな恋愛をするのであれば性別は二の次だった。
「頑張れって、応援するしか出来ないけど」
「だね。ぼくも海斗がバイトして頑張るのを応援するし、海斗は海斗で、僕が絵を描くのを応援する。なんか、美しい兄弟愛っていいねー」
コーヒーカップを両手で持ち、楽しげな口調で返してくる。