その腕につつまれて
「昼間は手伝えるんだけど、仕事があるから、夕方とかちょっときついんだ」
「ここで働いてるんじゃないんですか?」
「副業としてね。本業はこっち」
アルバイトのチラシを指し、フリーのデザイナーなんだと微笑みが向けられる。
「まだフリーになって二年目なんだけどね。なんとか、パソコンいじって少しでも食べられる様になってきた所だし、締め切り前になったら結構きつくてさ。だから、よかったら。もちろん、毎日来いっていうわけじゃないよ。週に二回程度でかまわないんだ。それだけでも、僕が十分助かるからね」
初対面なのに、いいのだろうか。
まだ出会って数時間しか経っていない。
戸惑いも覚えたけれど、この店に通えるという喜びの方が上回り、気がつけば頷いていた。
捺はほっとした表情を見せ、
「よかった。これでも初対面の子に警戒されたらどうしようかと思ったんだよ。それじゃ、僕からシュウに伝えておくから」
海斗に言い残すと、新しく入ってきた大学生らしき女性二人組みを席に案内していった。
(でも、いいのかな)
接客業なんてした事ない。
その上、引っ込み思案な性格をしているから、もしかしたら面倒をかけるかもしれないと、すぐに後悔し始める。こんな時、陸也だったら……とさっきから思い出しては頭の隅に追いやっていた顔が再び浮かぶ。
両親同様、嫌いなわけじゃない。
むしろ、この世で一番大切だって言えるだろう。
同じ顔に生まれ、同じ日々を過ごしてきたのに、まったく正反対の性格をしている陸也は、人と接するのが好きで、大学に入ったら、バイトにサークルにと忙しく動き回っていた。
少しは、自分も陸也みたいになれるだろうか。
淡い期待と少しの戸惑いを抱きながら、海斗は厨房にそっと視線を向けていった。
◇ ◇ ◇
「水曜日が定休日だから、前日の火曜日はちょっと忙しいけど、基礎を覚えてしまえばなんとかなるから。最初から全部出来る奴なんていないから、無理しないでいいよ」
最初に訪れてから二日後の水曜日に海斗は再びミスルトを訪れていた。バイトの件は正直半信半疑だったが、帰りに捺が念押ししてきたので海斗は内心戸惑いながらも、変われるきっかけだと思い直して承諾した。
火曜日と木曜日の四時から八時。
それが海斗がバイトをする曜日と時間帯だ。
大学などの関係を考慮してもらうのは悪いと申し訳なかったが、橘は平気だとあっさりと返してくる。
「海斗君には夕方からのラッシュ時に来てもらうから、ちょっと忙しくなるかもしれないけど、最初は捺に教えてもらったらいいよ」
カウンターの席に座り、説明を一通り聞き終わると海斗はほっと息をつく。質問を交えつつ、貰った二枚の接客マニュアルにもう一度目を通した。
一枚目には、このカフェで出されているメニューが。もう一枚には作業の流れが簡易に書かれている。接客は基礎をしっかりと覚え、メニューはざっと通しでもいいから把握して欲しいと告げられた。
ディナーの時間帯になるので品数が少し多くなってしまっても、『本日のメニュー』は厨房の上にある黒板に書かれているので見ればすぐに対応できる。定番メニューでも、頻度の高いものと低いものがあるんだと橘が教えてくれた。
「お店って、すごく大変なんですね。なんか、経営している人を尊敬します」
香りが高いコーヒーが海斗の前に置かれる。疲れただろうという橘の心遣いから、一緒に添えられたチョコレートがなんだか嬉しくなって自然と口元が綻んだ。
「こうやって誰かの笑顔を見るのは好きだからね。美味しい物を食べたら幸せになる。その手伝いが出来るから頑張れるのかな。だからといって、夢だけで経営できる程甘くもないから、毎日努力するんだよ」
「毎日、ですか」
「そう。ここに通ってくれる人の表情を見て、その人に声を掛ける。コミュニケーションは人間関係の第一歩だろ。だからといってなれなれしくしすぎても駄目なんだ。あくまでも、お客様だからね」
君は例外だったけどと付け足され、どきりと鼓動が微かに跳ねる。
柔く解けた眦に思わず俯いた。改めて真っ直ぐ見つめられると、その視線をどうやって受け止めたらいいのか内心戸惑ってしまう。
淡い瞳の色に魅入られてしまうような、そんな錯覚に陥ってしまいそうになる。
吸い込まれそうになっていた意識をどうにか引き戻しながら、ずっと気になっていた疑問を海斗は投げかけた。
「あ、あの…、最後に一つ聞いてもいいですか?」
「なんでもどうぞ」
「どうして、僕を雇ってくれるんです? この店にだってこないだ初めて知ったばかりだし、カフェに興味がある様には見えない。なのに…」
雇用するのなら、この業界に興味を持っている相手の方がスムーズに進行できるだろう。現に、海斗の知識はまったくの白紙状態だ。
「君はこの空間を気に入ってくれただろ。それに、店の雰囲気をじっくりと観察してた。じつは、こっそり見てたんだ」
橘のいたずらが見つかった子供みたいな表情にどぎまぎしながらも、気に掛けてもらえるのが素直に嬉しくもあり、気恥ずかしさも覚えてしまう。自分が誘ったからというのもあるだろうが、橘は一度手を差し伸べた相手にはとことん甘いらしい。帰り際、捺に教えられたのを思い出した。
「最初から、これがしたいって強い信念を持っている奴って、案外少ないんだよ。俺だって、ここを経営するって決めたの一度サラリーマンやった後だしね。何かを経験するうちに、自分は何をして生きていこうかって考えて、とことん悩んだ結果が『ミスルト』だったってわけ」
開業のノウハウは兄に教えてもらい、それからは勉強も兼ねていろんな店を訪れ、最終的に自分が目指すカフェに辿りついた経由を簡単に教えてくれる。
「ここは橘さんの理想なんですね」
「そうだよ。でも、まだ満足なんてしてないけど」
一度厨房に消え、再び戻ってきた橘はおまけのおまけだと、綺麗に盛り付けられたシフォンケーキを海斗に差し出す。
「これ、捺からの差し入れ。今日面接だって言ったら、手土産に持たされたんだ」
紅茶のシフォンと添えられているふわっとした生クリームに、軽くキャラメルソースがかかっている。
「もしかして、お店で出してるケーキって佐倉井さんの手作りなんですか?」
「シフォンだけは。あとは知り合いに頼んで毎日届けてもらってるんだ。これは捺のストレス発散の結果なんだよ。仕事が煮詰まるとすぐにお菓子作りに走るから、程ほどにしておくように言い聞かせてるんだけど」
苦笑しながらも、捺のやりたいようにさせている。
(なんか、羨ましいな)
二人の関係に羨望してしまう。
まだ二回目なのに。
それなのに、自分の中で橘の存在がどんどん大きくなっているのがわかる。兄がいたらこんな感じなのだろうかと憧れにも似た感情を抱きつつ、どぎまぎしながら海斗はシフォンケーキをフォークで切り分けた。
「ちょっと奥に行くけど、食べてていいからね」
「はい」
仕込みがあるらしく、橘はすぐだからと言い残して席を外す。
最初は小さな興味心から。次第にそれは強い欲求となり、海斗の胸を騒がせ始め、仄かな熱が生まれる。