その腕につつまれて
「あと、俺は橘修二。あの店の店主であり、この猫のパトロンでもあるかな」
最後の一言に、海斗は思わず笑ってしまう。
初対面の相手なのにどこか安心できるのは、橘の職業柄なのだろう。他人と自分との間に垣根があっても、それを越えてくるぐらい飄々とした態度と雰囲気を纏っている。けれど、他人の領域にずかずか入り込んでくる事はしてこないのに好感を持つ。
ほんの短い会話をしただけなのに、海斗の中で橘は安心できる存在だと認識出来ていた。
「でも、本当に懐いてますね。それじゃ飼い主だって思いますよ」
「店にくるお客さんにもしょっちゅう言われるよ。いっそ飼おうと思った時期もあるんだけど、どうも束縛されるのが嫌みたいで、よく部屋から抜け出されてたんだ。でも、こいつは根が寂しがりやだから、こうやって戻ってきてくれる。それだけで十分だなーって、今は割切ってるかな」
懐いてくれる。ただそれだけでいい。
カフェと呼ばれた猫は、甘えた声で短く鳴き、すりっと橘の頬に顔を寄せた。
すりガラスでアクセントをつけたドアを開け、橘が海斗を店に案内する。最初に目に入ってきたのは、壁に掛けられているいくつかの風景画だった。大小と大きさはさまざまだったが、描かれているのはどれも緑を基調としたものばかりで、繊細なタッチに目を奪われる。
白と黒のシンプルな空間にアクセントとして置かれている絵画。存在感をちゃんと主張しているのに、この店の雰囲気にちゃんと馴染んでいた。
「気に入った?」
「え、あ、はい。なんかいいなって」
「そっか」
どこか楽しげな表情。さっきから笑みを崩さない橘に声を掛けようとしたが、店の中からの鋭い声に海斗の呼びかけはあっさりとかき消された。
「シュウッ、サボるなら昼の仕込み全部してからにしてよっ。それに……と、君は」
さらに怒鳴ろうとした声がぴたりと止む。
「悪かったよ。でも、まだ十時だし、少しくらい休憩をもらってもいいだろ。朝の戦場が終わった後はゆっくりしたいんだ。ちょうど人も途切れた所だし」
「わかったよ。それより…」
「あ、こいつはここの臨時店員の佐倉井捺。忙しい時間帯だけ手伝ってもらってるんだ」
二人の会話を傍観していた海斗に、橘が紹介してくれる。された方もすぐさま営業用のスマイルを顔に浮かべ、軽い自己紹介をしてくれた。
歳は橘よりも少し下だろうか。綺麗で艶やかな黒髪と涼しげにすっとした目元が印象的で、男にも美人という形容詞はあてはまるんだろうかと素朴な疑問が生まれる。相手の優美さに目を奪われてしまっていた事に気づき、海斗は慌てて頭を下げた。
「そんなに緊張しなくてもいいって。君も店長に拾われてきたの?」
「拾われてって?」
捺がカフェと店主を指差す。
「こいつって、可愛い子みたらすぐに声かけるんだ。だから、手を出されないように気をつけるんだよ」
「そこ、人を変質者みたいに言わない。こんなに親切で優しい人に向かって失礼だろ」
「自分で自分の事を褒める奴に限って、信用できないんだって知ってる?」
「初耳だな、それは」
気心知れた仲ならではの掛け合いに小さく笑ってしまう。
「ほら、お前のせいで笑われただろ」
憮然としながら、橘は軽く捺を睨んだ。その後海斗に微苦笑を見せ、改めて名前を尋ねられる。
「えっと、よかったら名前教えてくれないかな。あ、別に下心があるわけじゃないからね」
「男ですよ、僕」
だから、下心の使い方は間違ってるんじゃないだろうか。
「さぁ、どうだろ。シュウの事だから案外本気じゃないのかなぁ」
「捺、お前は一言多いんだよ。って、ごめんね」
さっきが初対面なのに、気がつけばこの二人がいる空間に好感を持っている自分がいた。
この人たちと接してみたいという欲求が心に生まれてくる。
海斗は、橘と捺のやりとりがひと段落ついたのを見計らって、自分の名を告げた。
「じゃあ、海斗君て呼ぼうかな。せっかくだから、モーニング食べる? それとも、お昼のランチでもいいよ」
「シュウってば、オヤジみたい。可愛い子だとすぐに甘くなるんだよねー」
「可愛い子にサービスしたくなるのは、男として当然じゃないかな。まったく、捺が余計な事言うから固まってるじゃないか」
適当に作ってくると厨房へ消えた橘を目で追っていると、捺がくすくすと笑う。
「あいつ、ここが商売してるんだって忘れてるよね」
「あ、そうですよね」
海斗は客として来ているのに、肝心のオーダーすら聞かれていない。とりあえず適当に座ってと促され、海斗は入り口に近い二人掛けの席を選んでほっと一息ついた。
気がつけば、鬱々とした気分は綺麗さっぱりなくなっていて、代わりに暖かい陽だまりの様な温もりが胸を満たしている。大学でも家でも、こんな風にほっと息をつける場所がなかったのを思い出した海斗は、小さく微苦笑を浮かべた。
(こんな風に思ってたら、駄目だよね…)
それでも、寂しかった気持ちを持て余していたから。
家族と仲が悪いわけじゃない。
それでも、双子の片割れでもある陸也と無意識に比べられているのに気づいてしまってからは、双方に向ける愛情の温度差を感じてしまって、意識的に距離をとるようになってしまった。多分、両親が美術館系に携わる仕事に就いているからで、弟が進んだのが美大であるのも一つの要因だからだろう。
「お待たせ。結局ランチにしたけど、よかったかな」
橘が白いプレートとカップをテーブルに置く。
とろりと半熟卵のオムライスに新鮮なサラダ。そして付け合せのコンソメスープの香りに空腹感が刺激される。
「半熟なのってあんまり食べた事ないから嬉しいし、すごく美味しそうです」
「喜んでくれると、作りがいがあるね」
本当に嬉しそうに微笑む橘に、海斗まで幸せな気持ちになってくる。この空間が優しいのは、橘自身が穏やかで誰にでも手を差し伸べてくれるからかもしれない。
カランと音がし、捺が二人の客に挨拶をする。壁にかかっていた時計に目を向けると十一時半過ぎで、そろそろランチタイムが始まる時間らしく、橘はゆっくりしていって良いと言うなり厨房へと戻っていった。
それから十二時になるにつれ客足は増え、さっきまで海斗一人だった店は満席に近い状態になっていた。
大通りから少し外れた場所なのに、この繁盛はすごいんじゃないだろうか。
客層は二十代が多そうだなと、店内をそっと見渡す。
「美味しかった?」
最後にスープを飲んでいると、残り少なくなった水をグラスに継ぎ足しながら捺が尋ねる。橘の社交辞令を真に受けるつもりはなかったが、気がつけば一時間近くも長居をしてしまって、店内もさっきまでの賑やかさが少しだけ落ち着きをみせている。
「とっても。毎日食べたいくらいかも」
「あいつにそれ言ったら、毎日通わせるかも。なんか、海斗君を気に入ったみたいだし」
「…え?」
「毎日とまでは無理だろうけど、いっそ週二、三回くらいなら食べられる様にしたらどうかな」
「あの……」
捺がエプロンのポケットから一枚の紙を取り出す。
「今日貼ろうと思ってたんだけど、その必要ないみたいだね」
手渡された紙に書かれたバイト募集の文字。