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その腕につつまれて

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 ほんの少しの工夫で、人は幸福を味わえるんだと、橘は海斗に口付けながら伝えた。
 たとえば、ほんのりと小さく咲いた花が目に留まった時、少しでもほっと一息がつける。
 些細な演出だが、それだけで人は、心を緩和させる事が出来るから。
「俺には君が必要なんだ。だから、これからも一緒に居てくれないかな」
 蕩かされた心が素直に橘を求め、海斗は熱にうかされるまま、自ら橘に唇を寄せていった。
「…もっと、触れてもいいかな」
 耳朶を甘くくすぐる声に艶が混じる。絨毯の上に縫いつけられる様に横たえられ、右手首を拘束された。けれど、あまり力は入っていなく、抵抗すれば簡単に外れるぐらいだ。
 優しいだけじゃなく、牡の顔を見せてくれる橘に、心が漣立つ。嬉しい様な、泣きたい様な。上手く感情のコントロールが出来ず、海斗は手を伸ばし、橘の頬に震えそうになる指先を触れさせた。
「いいですよ。僕も……」
 欲しいと…告げる前に何度目かのキスが仕掛けられる。
 今度は軽く触れるだけではなく、息さえ奪うぐらいの激しいもので。翻弄されるままに身を任せながら、海斗はキスの合間にそっと橘の名を呼ぶ。
「好きです……修二さん」
 恋に落ちる瞬間は、一体いつなのだろうか。
気がついたら好きで、愛しくてたまらなくなっていた。この人が自分を選んでくれた事が嬉しくてたまらない。
 男が恋愛対象だとしても、誰でもいいわけじゃない筈だ。好みだってあるだろうし、性格の相性だってあるかもしれない。
 それでも、この先同性同士という問題で傷つくのは目に見えている。
けれど、きっと橘なら一緒に戦ってくれるだろう。
それと同時に、海斗も橘を守りたいと思う。
 傷ついたのなら優しく包み込んで、その痛みを癒してあげたかった。
 ずっと。ずっと傍にいたい。
 嬉しさも、悲しみも。全部を共有したい…なんてエゴでしかないのは承知しているけれど、それでも橘と一緒に居て、いろんな感情を共有したかった。
「…ん…っ」
 直に肌に触れた指先から、じりじりと肌に熱が散りばめられていく。
 海斗は初めて経験する行為に身を委ねながら、もう一度告白を唇に乗せていった。

 
   ◇ ◇ ◇


 定休日の水曜日。快気祝いをするからと、海斗は捺に呼ばれてミスルトを訪れた。
 豪華にデコレーションされたチョコレートケーキを切り分けながら、こき使いすぎなんだよと、捺が呆れ半分に橘を軽く睨む。
「でも、本当に良かったよ。シュウの奴、海斗君が休んでいる間、ずーっと暗かったし。梅雨でもないのに、じめじめしてうっとおしくてしょうがなかったんだけど、これでようやくいつも通りになるね」
 口では悪態をついているが、結局は二人の心配をしてくれる。
 三人分のコーヒーがテーブルに置かれた後、改めて海斗は二人に迷惑をかけた事を謝った。
 気にしなくていいと、優しく許してくれる人達だからこそ、きちんとけじめをつけたかった。
 卑屈になるのは自分に自信がなかったから。比べていたのは、結局自分もなんだと気づいた。
だからといって、他人の視線を気にしないなんて、性格上そう簡単にできそうにはないけれど、それでも迷った時は橘が手を差し伸べてくれるから。
 いつか、この人の隣に並べる位強くなろうと海斗は心の中で誓う。
二週間ぶりに訪れた店は、やっぱり居心地が良くて。ゆるやかな時間と、あたたかい人のぬくもりに触れながら、海斗はまたここで働ける嬉しさを、心の中でそっと噛み締めた。
「カフェも嬉しいよね」
 捺の言葉に、甘い声で縞猫が答える。
 ケーキのスポンジ部分をカフェ専用の皿に乗せ、捺が頭を撫でた。きっと、この猫もここが好きだから、ずっと通い続けているんだろうと思い、海斗もそっと柔らかいぬくもりに手を伸ばす。
 出会った当初から懐いていたカフェは、今も気持ちよさそうに海斗に手に頭をすり寄せた。
 三人と一匹のささやかな祝いが始まり、常連客の話題や、こないだ終日を迎えた陸也の絵画展の話題などで、あっという間に時間が過ぎていった。
「カフェが懐いているのを見て、すぐに気づいたんだ。この子は陸也君じゃないなって」
 捺が帰った後、二人で後片付けをしている時に、橘がさっきまで居たカフェを見て思い出したのか、初めて会った時の事を話し出す。
「それって…?」
「前に聞いたよね、モデルにしたいって。あまりにも追いかけるもんだから、ちょっと警戒しちゃってさ。だから、陸也が傍に行こうとすると、すぐに逃げて距離をおくんだよ。それなのに、あの時は違ったから」
 ちなみにと、微苦笑を浮かべながら橘が付け足す。
 陸也の場合、カフェに嫌われてるんじゃなくて、構われ過ぎるのに慣れていないから、ちょっとビクつかれているらしい。
 熱中しすぎて暴走するバイタリティーには感心するが、カフェには少々強烈だったようだ。
「だから、本格的に描くんじゃなくて、スケッチブックに軽くデッサンしていたよ。本当に描くのが好きなんだね」
「そうですね。多分、陸也にとって、絵は表現できる一番の方法なんだって思うんです」
 言葉でいくら雄弁に伝えたとしても、それにはやはり限界がある。だから、弟は真っ白なキャンパスに感情を塗りこめていくのかもしれない。
 時に嬉しさだったり、寂しさだったり。色で、形で自分の全てを象っていく姿に、やっぱり羨望するけれど。それでも、今は卑屈になる事はなかった。
「僕も、頑張らないと」
 海斗は橘に微笑み、まだ手探り状態でしかない将来の夢を語る。ここに出会ってから見つけたもの。だから、橘には最初に教えておきたかったのだ。
「空間デザイナーか。海斗らしいな」
「はい。ここで働いているうちに、やりたくなったんです。修二さんの店に来る人達は、みんな幸せな顔しているじゃないですか。料理やデザートはもちろん、ここに流れる時間も好きなんだろうなって」
 日常に忙殺されていると、ふと肩の力を抜きたくなる瞬間がある。
 数ある店の中で、この場所を選んで常連客になっている者は、きっとここで心を癒されているんだろうと海斗は思った。
 自分も、誰かが癒される空間を、この手で創ってみたい。
「前にあの絵の話してくれましたよね。きっかけをくれたものがすごく大切だって気持ち、今はよく分かります。僕の場合、この店がそうだから。ここに来ると、すごく元気が貰えるんです」
 それに、橘に会う事が海斗の活力にもなっている。
「元気になれる場所か。なんだか嬉しいな。と、そうそう。海斗にもう一つ言いたい事があったんだった」
 橘が楽しそうに笑む。
「言いたい事?」
「うん。実は、あの時が初対面じゃないんだ、俺達」
 カフェが取り持つ出会い。けれど、その前に一度会っているんだと告げられる。
「…ホントですか?」
「本当だよ」
 片づけが終わると、橘は手早くハーブティーを用意した。コーヒーも美味しいが、橘が自らブレンドしているお茶も海斗のお気に入りだ。
 カップを手渡され、並んでスツールに座る。
「あの時はカフェエプロンじゃなくて、スーツ姿だったし、今よりも髪が少し短くて、セットもしてたしね。それに、一度会っただけで覚えるのって難しいし、海斗が覚えてないのも分かるよ」
作品名:その腕につつまれて 作家名:サエコ