その腕につつまれて
壊れ物を扱うみたいに触れてくるのが嬉しくて、海斗は小さく頭を振った。信じたいと思って、結局信じきれていなかったのは自分なのだ。だから橘が怒るのも理解できる。
「僕の…方こそ、ごめ…んなさ……」
海斗は橘の手の甲に自分の掌を重ねた。この手がもう一度自分に触れてくれた事が嬉しくて…──幸せで。
しばらくして、橘が海斗の隣に座り直し身を寄せてくる。肩を抱かれ、海斗は引き寄せられるまま橘にもたれかかった。仄かに香る橘の匂いに安堵しながら目を閉じ、相手の鼓動に耳を傾けた。
あの絵だけど…と、やがて橘が思い出を話し出す。
「まだ俺が会社で働いていた時に、バイトしている陸也君から貰ったんだ。その頃の俺って、なんの目標もなくてさ。ただ親に言われるまま就職して働いて。同じ会社で働いている兄と比べられるのが最初は嫌だったのに、だんだんそれもどうでも良くなってさ」
毎日同じ繰り返し。
目的がなくても、人は生きていける。働いて日々を過ごしているうちに、妥協や惰性を覚えていく。それが悪いわけじゃないけれど、不意に襲ってくる理由のない虚しさに、時々押し潰されそうになってしまうのだ。
海斗には、橘の抱えている空虚がなんとなくだが理解できた。
「本気で楽しい事はないのかって、陸也君に言われた。ただ人に合わせているだけだったら、この先、生きてても心はいつか死ぬんだとね」
「陸也らしいや」
「そう。本当にあの子は自分のやりたい事をやってるって思ったよ。……あの人と同じ人種なんだって分かった。だから、余計に眩しかったんだろうな」
「あの人?」
誰なのだろうか。
「俺の兄だよ。一つしか違わないせいか、兄っていうよりも友人に近い部分もあって、昔はよく意見のぶつかり合いで喧嘩とかしてたんだけど、今は尊敬してるな。あ、ちなみに海斗も良く知ってる人だよ」
楽しげに微笑まれ、共通する人物──捺の名前を告げれば、今度は声を出して笑われた。
「確かに知ってるけど、年齢差では俺の方がそれなりに上だし、それに今のを捺が聞いたら、絶対にすぐ却下されるよ」
「…だったら分かりません」
言ってから、それもそうだと思い直す。自分の単純な思いつきに赤くなると、橘がこめかみに軽くキスをくれた。
「椿瑛一が俺の兄だよ」
陸也の恋人でもある人物の名を告げられたが、すぐには理解が出来なかった。
(瑛一さんて、あの?)
柔らかい印象のある橘と違い、椿からはどことなく硬質さを感じる。温厚な橘は温和な笑顔を常に見せ、柔和なイメージを持つが、海斗が会った椿は、寡黙なのにどこか野性味ある威圧感を持ち合わせていた。
橘と椿に類似点が見つからないうえ、苗字まで違う。
「でも雰囲気が違うし、それに名前だって」
「ああ、親が再婚して出来た兄弟だから。でも、また別れたんだ。忙しい人達だよ、ホント」
不仲になり別れたわけではなく、お互いの生活を尊重しての事だったらしい。離婚する頃には、橘も椿も成人していたので、親の事情に干渉はしなかった。
「で、俺は母側だったから旧姓に戻したんだ。もちろん、兄さんとは今でも仲がいいよ」
「じゃあ、椿さんが陸也と付き合っているのは…」
「もちろん知ってる。あの絵を貰った時には、兄さんはすでに、陸也君の事が好きだったみたいだけどね」
だったら、橘は失恋した事になる。すでに過去だと割り切っているから、こんなにも明るく話せるのだろうか。微笑んでいる表情からは、過去の痛みを感じ取れなかった。
恋を失って、辛いわけがない。
海斗はそっと橘を見上げる。
「心配しなくても、思ってる程ショックじゃなかったから大丈夫。陸也君に対して持っていたのは、羨望だったからね。好きというより、その奔放さに惹かれたんだ。自分が好きなものに対しての情熱が羨ましかった。そんな風に考えていたら、あの絵を渡されたんだ」
水の中を楽しそうに泳ぐ魚の姿。
どこにいくのか、目的はなんなのか。ただ流れに身を任せているだけにも思えるし、どこかに向かって進んでいる様にも見受けられるその姿を眺めていると、その時陸也がぽつりと零した事があるんだと橘が告げる。
「俺を見てると、自分の兄を思い出すんだって、ね」
「…僕を?」
「そう。自分のせいで、何もかも諦めてじっと我慢してるのが辛いって」
「そんな、陸也のせいじゃ…」
勝手に比較して落ち込んでいたのは海斗自身の弱さだ。だから、陸也はなにも悪くない。
「違うって、海斗はちゃんと理解しているよね。でも、それをきちんと伝えないと相手には伝わらないんだって、今だったら分かるだろう?」
問われて、こくりと頷く。
瑛一と橘がそうであった様に、陸也と海斗も、似た心情に陥っていたんだろうと橘に指摘される。
「見ていてすごく辛そうだったけど、多分向こうも同じ気持ちだったんだろうね。自分のせいだって悩んで落ち込んで。なのに、どうやってこの気持ちを伝えたらいいのか検討がつかないし。時間が経てば経つだけ、それを上手く誤魔化す術を下手に覚えてしまうから、本当にタチが悪いんだ。……隠し通したままでいられるなんて、ずっと兄弟として生きていくのだとしたら、絶対に出来るわけがないのに」
その響きが、橘自身にも言い聞かせる様にも思えて。
「だから、決めたんだ。前からやってみたかった事をしようって。あのまま会社に居て流されるままに生きるよりも、俺が自分に正直でいられる場所が欲しかった」
「それが、あの店なんですね」
頷いて、橘が肯定する。
「カフェに拘ったのは、学生時代にずっとバイトしてた店があって、そこのオーナー夫婦も優しくて、店もすごく居心地が良かったんだ。来てくれる常連客は気さくだしね。学生だから、あんまり使える金ないだろうって、オーナーがいつも料理をふるまってくれた。…なんだか、懐かしいな」
過去の経験が今に繋がる。
現在の自分の生活や日常を形成している起点が、その思い出のカフェなんだと容易に想像できた。
「もともと料理するのは好きだったから、飲食関係も視野にいれて考えたんだけど、誰かの下で働くとなると、結局会社と同じになるからね」
それからは、日々資金を工面したり開業する為の手続きに奔走したりと、目標に向かって走り続けたと橘が続ける。
「変えてくれたのが陸也なんですね。あの絵が店に必要だって意味、分かりました」
嫉妬する方が間違っているのだ。
「でも、海斗が嫌なら飾るのやめるよ」
両腕でぎゅっと抱きしめられた。突然の抱擁に頬に熱が集まってしまい、鼓動が早くなる。
「あれは橘さんの大事なものだから、あのままでいいです」
それもなくてはならない、彼の一部だから。
「俺と君が似ているっていうの訂正しようかな。海斗の方が俺なんかより、ずっとずっと強いよ」
「そんな事ないです。だって、あの絵があるから、今の橘さんが居るんですよね」
「でも今の俺がいるのは、君のおかげなんだよ」
こめかみに、頬に。
軽い口付けが落とされる。触れるだけのぬくもりが、じわじわと体に熱を灯していった。
「きっかけをくれたのは陸也君だけど、毎日頑張って働こうと思うのはミスルトに来てくれる人がいるからだし、何よりも君が俺を癒してくれるから、幸せになれるんだ」