春雨 01
何か釈然としないものを感じながらも、私は包帯とガーゼを外した。血が固まり始めていたのか、傷口付近のガーゼをはがす時に少しぱりぱりと音がして、痛みを伴う。
ガーゼをはがしてさっきと同じ様に椅子に座ると、先輩が不服そうな顔をしてこちらを見ていた。私はその表情に戸惑う。何か変なことをしてしまったのだろうか?
「おまえさあ。それだと消毒できないだろ? 傷口は足の後ろ側なんだから…」
「あ…」
確かにお互いに向かい合って椅子に座っている状態では、私の足の消毒ができない。
「ほら、立って立って」
先輩が肩に手を当てて、私を椅子から立ち上がらせると、そのままくるっと後ろを向かせた。
やっぱり手当してくれるつもりなんですね。
その直後に足元にしみるような感覚。
「いたっ…」
先輩はまず血を丁寧にぬぐい、傷に消毒液をつけてくれた。
ほんの数秒だったけど、痛みのおかげでずいぶん長かったような気がする。私は素直に痛いと言いたかったが先輩に抗議してもどうなるものでもなく、黙ってされるがままになっていた。
「あ、悪い。靴下に消毒液付いちゃったよ」
「気にしなくていいですよ。どうせ血で汚れちゃってますから」
「そう? いい子だねえ」
また茶化してそんな風に言われてしまった。いい子なんだろうか?
先輩は消毒を終えたのか、傷口にガーゼをあてると、それをテープで留めた。
そして仕上げとばかりに私を足をぱちんっと叩いた。
「はい、完了ー」
「…っっいたーっ!」
叩かれたのが傷の真上だったからたまらない。私は先輩の方を向くと、恨みがましそうな視線で彼を見た。
「…なんだ、痛いってちゃんと言えるじゃないか」
ふいに真顔でそう言われて、抗議の声を飲み込んでしまった。さっき痛いと言わなかったのがそんなに気に入らなかったのだろうか。
「まあまあ、とりあえず座りなさい」
私はおとなしく椅子に腰掛けた。立って見下ろしていた先輩の顔が、座った事で見上げる様な形になる。
ふいに会話がとぎれた。少し上から落ちてくる無言の視線に耐えきれずに、私は目線をそらした。
こういう沈黙は嫌いだ。大抵相手は言いにくい事を言いたくて、どうきりだそうか悩んでいるのだろう。
つい先日の嫌な場面が不意に蘇った。
ばかみたい。いつまであの事引きずっているんだろうか。女々しい自分に腹が立つ。
「おまえさあ。片桐とつきあってるんじゃないの?」
ふいにそんな言葉が聞こえてきた。
「つきあってませんよ」
作った笑顔。気付かれてしまっただろうか。
「でも、何度か一緒に帰ったりしてただろ? 前に噂も聞いた様な気がしたけど」
「片桐先輩は今は知里ちゃんとつきあってるんですよ。知らなかったですか?」
「え? そうなのか?」
明らかにしまったという様な顔。私はそれに気付かぬ振りをする。出来るだけ平静を装って言葉を続けた。
「はい、今日も一緒にいたじゃないですか。私とはもうとっくに別れたんです」
怪我を指摘されて振り向いた時の、みんなの中に2人の顔もあった。ぴったりと側に寄り添って、何ともいいたげな視線をよこしていたのを覚えている。なによりもあの2人をみていなくなくて、早くあの場から逃げ出したかった。
「先輩は、私が怪我した時に片桐先輩が追わないから、心配で見にきてくれたんですか」 無言の肯定だった。少しばつの悪そうな顔が鷹凪先輩らしくなくて笑ってしまった。
さっきまでの作り笑いとは違う。自然に笑えた。
誰かがこうして心配してくれることは素直に嬉しい。あの場にいるのは辛かったけれど、心配して気遣ってくれる友人もいたから、がんばれた。
それがあったから、あれから何度も逃げ出しそうになるのをこらえられたのだ。
「なんでそこで笑うんだよ」
「先輩が優しいからですよ」
我ながら恥ずかしい台詞だ。言った後で照れてしまった。
「照れるなら最初からそんなこと言うなよなー」
あきれた声もどこか優しい。お互いに照れくさくてへへっと笑ってしまった。
「ま、元気出せよ。どーせすぐにいい奴見つかるって」
「そうですね」
そんなことはありえないかもしれないとは言わなかった。こうして追ってきてくれたのがあの人だったらとも言えなかった。今そんなことを口にする必要はない。
「そういえば先輩は彼女いないんですか」
これ以上自分の話はしたくなくて話の矛先を彼に向けた。その質問に彼はどこか誇らしげに答える。
「いない!」
「…なんでそんなに偉そうに言うんですか?」
「別にいいだろ」
「じゃあ好きな人はいるんですか?」
「…」
途端に黙ってしまう。あれ?
「いるんですか?」
「…ああ、えーとその辺はノーコメントという事で」
目線を外して空を見上げる。あからさまに動揺してる姿が面白い。
滅多にこういう立場に立つ事はない私はつい調子にのってしまう。
「誰ですか? 私の知ってる人ですか?」
「だーかーらー、誰もいるなんて言ってないだろ?」
「いないんですか?」
「…」
「そこで言葉に詰まるって事は、いるんですよね?」
「…」
目線を外したままで、口元は少しひきつっていた。
どっちなんだろう。きっといることはいるんだろうけど。でもそんなに言いたくないってことは何か訳ありなんだろうか?
もしそうだとしたら、からかうのは少し可哀想になってきた。う~ん、何とかフォローしないと。
その時、不意に膝に置いていた両手が掴まれた。
彼は私の手を自分の両手で掴むと、背をかがめて、自分の顔を私の顔の目の前まで持ってきた。
「せんぱい?」
「俺、実は…」
ややためらったような様子を見せた後、覚悟を決めた様にきゅっと口を引き結んで言葉を紡いだ。
「おまえのことがすきなんだ」
私は驚きのあまり、硬直してしまった。先輩が? 私を好き?
今までまともに話した事なんてなかった。そりゃ今日ちょっといい人だなって思ったけど。ああ、それならさっき私を追ってきてくれたのも気になってたから?さっき好きな人で言葉につまったのも本人が目の前にいたから? それなら気持ちも分かるし。でもそれにしたってちょっと唐突すぎないだろうか。それにこんな話出来すぎてないだろうか。私を好きな人なんてそうそう現れるはずないもんね。でも実際好きだって言われてしまった。あ、もしかして私の聞き間違いってことは…ないよね?
くるくると目の前が回る様な気がした。頭が真っ白になって、顔は熱を持って真っ赤に鳴っているのが自分でも分かる。握られた手も震えていた。
そしてひとしきり考えて、私の視線が改めて目の前の先輩の顔に戻ってきた。
って、あれ?
先輩は何かをこらえるかのように下を向いていた。と、次の瞬間。
「…っっっふ。…ははは…あははっっっっ!」
あろうことか、目の前で盛大に吹き出したのだ。
一瞬状況が飲み込めない。
私がそんなに変だったのだろうか。彼は真剣に告白してくれるつもりだったのにそれをこんな風にしてしまう程。
「ははははっっ…おかし…。そんなに…真面目にとるとは思わなくて…」
『真面目にとる』そりゃ告白は真面目にとらなきゃ相手に失礼だろうに…。