春雨 01
ずっと言いたかった言葉がある。
むかしむかし諦めてしまった気持ち。
そして私はいつからか、その気持ちを抱く事ができなくなってしまっていた。
がしゃんっ!
ものすごい轟音と共に、後ろから何かが落ちる音が聞こえてきた。
その音の一瞬後に、右足のふくらはぎに鈍い痛みが走る。
「いたっ」
痛みはそれほどたいした物ではなかったと思う。だから私は、そのままさっきまでと同じ様に道具の片づけを始めていた。しかし、直後に後ろから慌てた様な声が聞こえてきた。「ちょっと! 美智! 足!」
友人に名前を呼ばれて振り向くと、後ろには皆の驚いた様な顔。そしてその視線は私の足元に釘付けになっている。
その視線を辿ると…
「血が出てるって! 大丈夫?」
本人よりも周囲の方が慌てているというのは滑稽だなあ。と思いながら私は自分の足を見る。ただ頭を下げただけでは、足の前しか見えない。傷は後ろ側だ。首を捻って下を見る。
傷の深さはよくわからなかった。しかし、血の量は半端じゃなかった。
「あー…」
自分でも状態がうまく飲み込めなくて、言葉が出てこなかった。しかしこれならみんなが言葉を失うわけが分かる。膝の少し下から下に向かって縦に数センチ程延びた傷からは、絶え間なくぽたぽたと血が流れ出ていた。
傷を見た途端、足の痛みがひどくなったような気がする。きっと気のせいだと思うけど。とりあえず、血だけでもとめないと。
その気持ちが通じたのか、ちょうど女の子がガーゼと包帯を持ってきてくれた。
「これ救急箱にあったから、使って」
「ありがとう」
私は彼女にお礼を言って、足にガーゼを当て上から包帯を巻いた。ガーゼで傷に触れた途端、足に痛みが走る。私は顔をしかめながら、体育館の出口に向かって歩き出した。
「美智、ついてくよ。肩貸して」
尚も心配そうな顔をして、仲のいい友達の秋田香が体育館の出入り口までついてきてくれた。出口の段差のところで私の腕をつかんで自分の肩に載せようとしてくれるが、
「一人で大丈夫。それよりも保健室行ってそのまま帰るから、荷物持ってきてくれない?」 やんわりと断ると、彼女はすぐに更衣室に向かって走っていった。
私はそのままみんなの視線を背中に感じながら、歩き始めた。
こういう瞬間がなんとなく苦手だ。みんなはきっと心配そうな目でこちらをみていてくれるのだろうが、私は痛いって素直に言うのが苦手だ。
かといって本当に痛くないわけではないから、何もないふりも出来ない。
どういう対応をしたらいいか困る。向こうもこちらの反応を見ているわけだから、お互いに気まずい状態になるだけだった。
体育館の扉を閉めると、ほっとひといきついた。
そんな自分の不器用さ加減に少しあきれてしまう。
あそこで痛いって叫べたり、冗談ぽく話せたらいいのにな。
現金なもので、ひとりきりになったら素直に痛いと思える様になった気がする。
「あー、痛い痛い」
さっき言えなかった分だけ独り言で呟いた。その時。
「だったら最初から素直に痛いって言えばいいだろ」
背後から声が聞こえた。と思ったら、腕を捕まれた。
思わずびくっとして振り向くと、さっき体育館にいた人物がそこにいた。
「鷹凪先輩…どうしたんですか?」
よそ行きの声になって先輩に話しかける。私はとっさに笑顔を作ったが、先輩はそれに答える気などないかのように腕を掴んで自分の肩に回そうとする。
「大丈夫ですってば。一人で歩けます」
「うるさい。いいから黙って捕まってなさい」
無表情の顔でそんな風に言われると正直怖い。きっと素直に手を出さない私にあきれて、わざと命令的な口調で言っているんだろうけど。それがわかってても怖い。
本意ではなかったが、肩を借りることにした。ただし私は先輩のこちらがわの肩を掴むだけにした。
時々体重のかけかたで強く握るようになってしまうのは勘弁して欲しい。
片足をかばいながら歩くので、どうしたってスピードは遅くなる。保健室までは少し距離がある。時間がかかるのに、先輩は辛抱強く黙ってスピードを合わせてくれていた。
意外といい人なのかもしれない。
それが私の今日初めて抱いた彼に対する印象だった。今までこんな風に個人的に関わる事がなかったのだ。彼がみんなと喋っているのは見た事あるけど。私が勝手に苦手な印象を持っていた。だって、黙ってると怖いんだもん。会話をしていれば笑ったりして空気が柔ぐことがあけど、生憎、私といる時にそういう顔をしてくれたことはなかった。
今もどっちかって言うと怖いけど。多分これは気のせいじゃなくて、私がさっき素直に肩を借りなかったからだろう。
って、何で私が気をつかわなくちゃいけないんだろう。
「…おまえさあ、さっき本当に怪我したこと気付かなかったわけ?」
唐突に声をかけられて戸惑った。
「はい?」
「さっき秋田が言うまで、痛がってなかっただろ?」
秋田とは私の鞄を取りに行ってくれてる友達だ。
「…多分」
「多分? なんだよそれ?」
「何かが当たった感触はあったけどそんなに痛くない様な気がしたから、『後で確かめればいいや』って思ってたんです。みんなに言われて見たら血が沢山出ててびっくりした」
「血を見たら初めて痛くなったわけ?」
「いや、もともと痛みはあったんだろうけど…」
そこでちょっと迷う。なんて言ったらいいか上手い表現が浮かばなかったからだ。
「早く片づけして帰りたかったから、痛みを感じるのは後でいいかって思ったのかな?」 自分でも疑問形になってしまった。よく判らないんだから仕方ないじゃない。
「『後でいいか』って…。普通は感じたくなくても痛いもんは痛いだろ?」
「そうですねー」
おざなりな返事の私に、大きな溜め息が降りかかった。
「…はあー。『早く帰りたかった』って、そんなに大事な用事でもあったわけ?」
最後は冗談のつもりだったのだろう。彼の顔が笑っていた。
しかし、早く帰りたい理由ならあった。嫌なことが頭をよぎって、私は笑えなかった。
「とにかく怪我だけは気をつけろよー。部活中だとリーダーの責任になるんだから」
まるで先生が生徒に言い聞かせる様に言われてしまった。でもこれで謎が解けた。
「それで、付いてきたくれたんだ。私の怪我がひどいと鷹凪先輩が責任とらなきゃいけないですもんね」
先輩がリーダーになったのは3年生が引退した先月からだった。黙っていれば怖い先輩も面倒見だけはよく、みんなに慕われていたからだ。
「おまえさあ、『私の事心配してついてきてくれてありがとう』くらい言えないの」
冗談ぽく行ってにこっと笑った先輩の笑顔に、私もつい笑顔を作ってしまっていた。
このあたりが、皆に慕われている理由かもしれない。少しだけ、彼に好感が持てた。
保健室についたのに、中には保険医の姿が見あたらなかった。
先輩はひとまず私を椅子に座らせると、薬品棚の中を物色し始める。
「えーと、消毒するのはオキシドールだっけ?」
先輩は茶色の瓶を取ってきて、私の正面の椅子に座る。どこからかピンセットと綿を見つけてくると、楽しそうに準備を始める。
「ほれ、包帯とって」
「…」
むかしむかし諦めてしまった気持ち。
そして私はいつからか、その気持ちを抱く事ができなくなってしまっていた。
がしゃんっ!
ものすごい轟音と共に、後ろから何かが落ちる音が聞こえてきた。
その音の一瞬後に、右足のふくらはぎに鈍い痛みが走る。
「いたっ」
痛みはそれほどたいした物ではなかったと思う。だから私は、そのままさっきまでと同じ様に道具の片づけを始めていた。しかし、直後に後ろから慌てた様な声が聞こえてきた。「ちょっと! 美智! 足!」
友人に名前を呼ばれて振り向くと、後ろには皆の驚いた様な顔。そしてその視線は私の足元に釘付けになっている。
その視線を辿ると…
「血が出てるって! 大丈夫?」
本人よりも周囲の方が慌てているというのは滑稽だなあ。と思いながら私は自分の足を見る。ただ頭を下げただけでは、足の前しか見えない。傷は後ろ側だ。首を捻って下を見る。
傷の深さはよくわからなかった。しかし、血の量は半端じゃなかった。
「あー…」
自分でも状態がうまく飲み込めなくて、言葉が出てこなかった。しかしこれならみんなが言葉を失うわけが分かる。膝の少し下から下に向かって縦に数センチ程延びた傷からは、絶え間なくぽたぽたと血が流れ出ていた。
傷を見た途端、足の痛みがひどくなったような気がする。きっと気のせいだと思うけど。とりあえず、血だけでもとめないと。
その気持ちが通じたのか、ちょうど女の子がガーゼと包帯を持ってきてくれた。
「これ救急箱にあったから、使って」
「ありがとう」
私は彼女にお礼を言って、足にガーゼを当て上から包帯を巻いた。ガーゼで傷に触れた途端、足に痛みが走る。私は顔をしかめながら、体育館の出口に向かって歩き出した。
「美智、ついてくよ。肩貸して」
尚も心配そうな顔をして、仲のいい友達の秋田香が体育館の出入り口までついてきてくれた。出口の段差のところで私の腕をつかんで自分の肩に載せようとしてくれるが、
「一人で大丈夫。それよりも保健室行ってそのまま帰るから、荷物持ってきてくれない?」 やんわりと断ると、彼女はすぐに更衣室に向かって走っていった。
私はそのままみんなの視線を背中に感じながら、歩き始めた。
こういう瞬間がなんとなく苦手だ。みんなはきっと心配そうな目でこちらをみていてくれるのだろうが、私は痛いって素直に言うのが苦手だ。
かといって本当に痛くないわけではないから、何もないふりも出来ない。
どういう対応をしたらいいか困る。向こうもこちらの反応を見ているわけだから、お互いに気まずい状態になるだけだった。
体育館の扉を閉めると、ほっとひといきついた。
そんな自分の不器用さ加減に少しあきれてしまう。
あそこで痛いって叫べたり、冗談ぽく話せたらいいのにな。
現金なもので、ひとりきりになったら素直に痛いと思える様になった気がする。
「あー、痛い痛い」
さっき言えなかった分だけ独り言で呟いた。その時。
「だったら最初から素直に痛いって言えばいいだろ」
背後から声が聞こえた。と思ったら、腕を捕まれた。
思わずびくっとして振り向くと、さっき体育館にいた人物がそこにいた。
「鷹凪先輩…どうしたんですか?」
よそ行きの声になって先輩に話しかける。私はとっさに笑顔を作ったが、先輩はそれに答える気などないかのように腕を掴んで自分の肩に回そうとする。
「大丈夫ですってば。一人で歩けます」
「うるさい。いいから黙って捕まってなさい」
無表情の顔でそんな風に言われると正直怖い。きっと素直に手を出さない私にあきれて、わざと命令的な口調で言っているんだろうけど。それがわかってても怖い。
本意ではなかったが、肩を借りることにした。ただし私は先輩のこちらがわの肩を掴むだけにした。
時々体重のかけかたで強く握るようになってしまうのは勘弁して欲しい。
片足をかばいながら歩くので、どうしたってスピードは遅くなる。保健室までは少し距離がある。時間がかかるのに、先輩は辛抱強く黙ってスピードを合わせてくれていた。
意外といい人なのかもしれない。
それが私の今日初めて抱いた彼に対する印象だった。今までこんな風に個人的に関わる事がなかったのだ。彼がみんなと喋っているのは見た事あるけど。私が勝手に苦手な印象を持っていた。だって、黙ってると怖いんだもん。会話をしていれば笑ったりして空気が柔ぐことがあけど、生憎、私といる時にそういう顔をしてくれたことはなかった。
今もどっちかって言うと怖いけど。多分これは気のせいじゃなくて、私がさっき素直に肩を借りなかったからだろう。
って、何で私が気をつかわなくちゃいけないんだろう。
「…おまえさあ、さっき本当に怪我したこと気付かなかったわけ?」
唐突に声をかけられて戸惑った。
「はい?」
「さっき秋田が言うまで、痛がってなかっただろ?」
秋田とは私の鞄を取りに行ってくれてる友達だ。
「…多分」
「多分? なんだよそれ?」
「何かが当たった感触はあったけどそんなに痛くない様な気がしたから、『後で確かめればいいや』って思ってたんです。みんなに言われて見たら血が沢山出ててびっくりした」
「血を見たら初めて痛くなったわけ?」
「いや、もともと痛みはあったんだろうけど…」
そこでちょっと迷う。なんて言ったらいいか上手い表現が浮かばなかったからだ。
「早く片づけして帰りたかったから、痛みを感じるのは後でいいかって思ったのかな?」 自分でも疑問形になってしまった。よく判らないんだから仕方ないじゃない。
「『後でいいか』って…。普通は感じたくなくても痛いもんは痛いだろ?」
「そうですねー」
おざなりな返事の私に、大きな溜め息が降りかかった。
「…はあー。『早く帰りたかった』って、そんなに大事な用事でもあったわけ?」
最後は冗談のつもりだったのだろう。彼の顔が笑っていた。
しかし、早く帰りたい理由ならあった。嫌なことが頭をよぎって、私は笑えなかった。
「とにかく怪我だけは気をつけろよー。部活中だとリーダーの責任になるんだから」
まるで先生が生徒に言い聞かせる様に言われてしまった。でもこれで謎が解けた。
「それで、付いてきたくれたんだ。私の怪我がひどいと鷹凪先輩が責任とらなきゃいけないですもんね」
先輩がリーダーになったのは3年生が引退した先月からだった。黙っていれば怖い先輩も面倒見だけはよく、みんなに慕われていたからだ。
「おまえさあ、『私の事心配してついてきてくれてありがとう』くらい言えないの」
冗談ぽく行ってにこっと笑った先輩の笑顔に、私もつい笑顔を作ってしまっていた。
このあたりが、皆に慕われている理由かもしれない。少しだけ、彼に好感が持てた。
保健室についたのに、中には保険医の姿が見あたらなかった。
先輩はひとまず私を椅子に座らせると、薬品棚の中を物色し始める。
「えーと、消毒するのはオキシドールだっけ?」
先輩は茶色の瓶を取ってきて、私の正面の椅子に座る。どこからかピンセットと綿を見つけてくると、楽しそうに準備を始める。
「ほれ、包帯とって」
「…」